甍の上で

株式会社創瓦 社長 笹原真二のブログです。

2015年3月のマンスリー

2015-03-29 09:10:29 | Weblog
     風に立つライオン
 15日の日曜日、午前中、お袋の手伝いで小さな耕運機で畑を打ったあと、キプロのオーナー山内さんから「急なんだけど午後から空とる?映画を観にいかん?風に立つライオン」という電話が。観たい映画だったので、「ハイ、行きます!」と即答。午後2時頃に山内さんと福山フジグランのエイガルシネマへ。
 映画は、第三者が回想していく。1987年、主人公島田航一郎が長崎大学付属病院からケニアのナクルにある長崎大学熱帯医学研究所に派遣され、半年後、ロキチョキオにある赤十字戦傷病院からの派遣要請でひと月間赴任。スーダンの内戦で負傷した兵士たちの治療に追われながら、自分の無力さを痛感する。ナクルへ帰ったあと自分を「群れから離れて厳しい環境の中で生きるライオン」にたとえ、ロキチョキオに行かせてほしいと自ら赴任して行った。そこには新たに加わった日本人看護師草野和歌子がいた。そんな時、家族を皆殺しにされ、麻薬で少年兵に仕立てられたンドゥングが左足を撃たれ運ばれてくる。周りに対しても敵意を剥き出しにするンドゥングに航一郎は歩み寄ろうとする。
 1985年、長崎大学付属病院。航一郎はある癌患者の治療に携わることから、同僚医師秋島貴子とお互い意識していくようになる。翌年、長崎の離島の診療所で医師をしている貴子の父親は脳梗塞で倒れ回復はしたものの半身に麻痺がのこり診療することが難しくなる。そのころ、航一郎はケニア行きを決め貴子に同行を求める。しかし、離島の住民がいかに父を頼りにしているかを目の当たりにし診療所を継ぐ決意を固めた。
1988年、クリスマス、サンタの航一郎は病院の孤児たちにプレゼントを手渡す。かつて人を殺すことを自慢していたンドゥングには銃のおもちゃを渡すと彼は銃を火にくべ、「自分は9人の命を奪った。こんな自分でも医者になれますか」と涙ながらに問いかけるンドゥングに、航一郎は「それならば、一生をかけて10人の命を救え」と告げた。航一郎と和歌子は病院の敷地内に孤児院を作る為の行動を開始する。そんな矢先、現地を良く知るアフンディと一緒に国境付近まで負傷した人はいないか?とパトロールに出た航一郎は襲われる。
2011年3月25日、東日本大震災の宮城県石巻市のがれきで埋め尽くされた廃墟の中に成長して医師となったンドゥングが佇んでいた。
「風に立つライオン」という唄は、さだまさしが淡々と歌う8分もの大作で、詩を聴いていると頭の中で行ったこともないアフリカの大地が自然と映像化されていく。ビクトリア湖の夕焼け、100万羽のフラミンゴが一斉に翔び立つ様子。キリマンジャロの白い雪、草原の象のシルエット、患者たちの瞳の美しさ・・・闇の中ではじける祈りと激しいリズム、満点の星、南十字星・・・診療所に集まる人たちは病気だけれど、少なくとも心は僕より健康なのですよ・・・そして雄大な丘の上に立つライオン・・・物語が流れていくような、淡々と歌いながら、いつの間にかダイナミックな、そして力強い唄に変わって行く、まるで映画でも見ているかのような・・・
   2015年3月28日            笹原 真二
追伸
映画はノンフィクションだと思った。帰りにTUTAYAで、さだまさしの小説「風に立つライオン」を購入、そしてすぐ読んだ。
「良かった。映画はフィクションだった。あれで航一郎が死んでしまったらあまりにも悲しすぎる」と誘ってくれた山内さんに電話で話した。本当に良い映画だった。フィクションとかノンフィクションとかは全く関係ない。良いものは良い。是非、みなさんこの大作を観に行ってみてください。そして、小説も読んでみてください。  
さだまさしのお父さんの友人で、ケニアの長崎大学熱帯医学研究所から帰ってきた柴田紘一郎医師との出会いから15年もの時を要して「風に立つライオン」ができ1987年に発表された。映画.制作の第一歩が踏み出されたのは5年前、しかし、それ以前に俳優大沢たかおが、さだまさしに映画化に向けた話を持ちかけていたという。映画化に向けた小説「風にたつライオン」は東日本大震災後の2013年に発表され、この映画の製作に入った。だからこの映画は40年位上前、さだまさしと柴田鉱一郎医師の出会いから始まった。
さだまさしは、この歌は僕が作ったのではなく、神様が「くださった」歌なのだと言っている。
 映画「風に立つライオン」パンフレットから抜粋。
 こんな映画を観ることが出来たことに感謝します。


 
コメント
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