花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

八重山諸島の旅 (2)

2009年01月25日 | 「国内旅行」八重山諸島・四国周遊
[石垣島観光]
②川平(カビラ)湾
南国の太陽に照らされた川平湾には小型のグラスボートが数隻浮かんでいて、波も静かだった。
早速私達は、2艘の海底を見ることができるグラスボートに分かれて乗り込んだ。
ボートが静かに湾に出ると、間もなく船底に見たことの無い色々な形をしたさんご礁、泳ぐ可愛いくまのみや鯛、海草が次々と見えて来た。30分間は、あっという間に楽しく過ぎた。

   

③唐人墓
バスを降りようとしたら急に大粒の雨が降って来たので、傘を差して中国様式の墓の前に行った。
墓には建立された経緯が克明に刻まれていた。
それによると、1852年2月、中国福建省からアメリカのカリフォルニアへ中国人苦力400余人を運んでいたアメリカ船内で、虐待に耐えかねた中国人が暴動を起こし、米国人を殺害後、石垣島沖で座礁して、380人が島に辿り着いた。
八重山政庁は小屋を建てて収容したが、その後3回に渡ってやって来た米英兵船の攻撃などで128人が死亡。島民は一人々々に石積みの墓を建てて手厚く葬ったという。
また生存者には密かに食料を与えて人道的な援助をした。
その後事件は解決を見、翌年9月、生存者は福州に送還された。
この墓は1971年に、石垣市が中華民国、在琉華橋に寄付を募って建てたのだと言う。
私は、この地で初めて当時の凄惨な事件と島民の温情を知った。急な雨に、128人の涙を思った。

 

最後に誰もいなくなった唐人墓の後ろへ回って見た。
建立に尽力した当時の琉球政府行政主席、屋良朝苗氏の追悼文が石碑に刻まれて埋め込まれていた。
それには、『人間が人間を差別し、憎悪と殺戮が繰り返される事の無い人類社会の平和を希い、この地に眠る異国の人々の霊に敬虔な祈りを捧げる』と、書かれていた。
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