湘南ライナー日記 SHONAN LINER NOTES

会社帰りの湘南ライナーの中で書いていた日記を継続中

タイムスリップライス

2009-05-16 23:40:53 | B食の道


いつかはトルコライスと考えていたので、この本の新聞連載時に、すでにチェック済みのお店。
本場のとは形態が異なる「トルコライス初期型」というのも承知の上で訪問。どちらにしても、ウマそうだからね。
ムサコの『かどや』は、見た目(たたずまい)からしてウマそう(笑)。
開店の11時過ぎに入店したので、僕だけ。注文すると、カツを揚げるところからスタート。厨房から聞こえてくる音が、すべて自分のためだと思うと、期待も高まる。かかった時間は、しっかりとした仕事の証明でもある。
写真を撮りたいというと、お母さんが「じゃあ、これを並べなおすわね」とグリンピースをキレイに配置してくれた(笑)。
うれしいケチャップライスはシッカリとした味つけで嬉しい。中ほどにデミグラスソースがかかったトンカツが潜んでいる。あのかつめしのパターン。今柊二さんのいう「中入れ方式」である。
なんか楽しいんだな、これが。ワクワクする。出てくるのはトンカツだけだってわかっているんだけど、嬉しい(笑)。
ボリュームもかなりあって満足度が高い。しかも、初めて食べたメニューだけど、懐かしい味わい。壁のメニューなんかも昭和チック。


テレビでは、太地喜和子、沖雅也らが熱演中。えっ?どういうこと?演出というわけじゃないよね。
お母さんによると、松本清張特集をやっているのだという。新聞の番組表を見たら、NHKの『アーカイブス』という番組で、『依頼人』というドラマだそうだ。
母校を見てきたばかりということもあって、すっかりタイムスリップしてしまった。





川崎旅情

2009-05-16 22:22:37 | 思い出日和


ムサコとモトスミを歩いて、トルコライスを食べた後、久々の南武線に揺られて川崎駅へ。
今は亡き川崎球場を訪ねた。いや、今もあるんですね川崎球場。スタンドは姿を消していたが、3基の照明塔は当時のままが活かされているという。
ここへは、大学生の頃バイトで何度か来ている。横浜スタジアムで球場係員がメインだったが、雇い主であるシミズスポーツ(現シミズオクト)が関東の各球場(西武球場を除く)をカバーしていたので、時々他の球場にヘルプに行くことがあったのだ。
後楽園も、神宮も楽しかったが、川崎は特に楽しみだった。
当時はロッテ(現・千葉ロッテ)の本拠地だったが、なにしろいつもガラガラで、声が筒抜け(笑)。いや、スタンドからの声だけじゃないですよ、選手やコーチたちの声も全部。コーチとスタンドの掛け合いがあったりしたんだから、ホント。のんびりした雰囲気なのに、妙な緊張感があった。「川崎劇場」と呼ばれるずっと前の話だ。
そして、僕らはファウルボールがスタンドに飛び込むと回収に走る。そして、拾った人にボールと交換にロッテのガムを進呈するのだ。他の球場では回収に手間取ることも多かっただけに、このシステムはうらやましかった。
それに、なんといってもラーメン屋さんですね。シンプルで、しかも立ち食いだったけど、これがうまかった。僕がいつも懐かしがっている昭和のラーメンは、ここの記憶だったのかもしれない。
今日は、アメラグのゲームで賑わい出店もあったが、残念ながらラーメン屋は見えなかった。でも、ちゃんとシミズオクトのお兄ちゃんがチケットをもぎっていたのだった。


こうやって撮ると、当時の感じに見えませんか。

本当は自転車で走るはずだったが、歩きにしたおかげで、いろいろ発見できました。




このあたりは区画整理されてしまうようですね。往時が偲ばれるいい雰囲気だけど。


「紙石鹸」って…


いい路地でした。


ステキな店すぎて、もう言葉はいりませんね。


いつまでも続いてほしいお店です。

あの頃は、川崎球場までの道のりは、けっこう恐いイメージだったけど、今はなんでもないね。今日も昼間っから人が続々と風俗店に吸い込まれていくのにはビックリした。

ムサコとモトスミ

2009-05-16 21:21:31 | 思い出日和


朝、表へ出たら空が今にも泣き出しそう。
そこで、折り畳み自転車を諦め、折り畳み傘を鞄に入れて歩きに変更した。
本日のテーマは『トルコライス』と『高校』と『川崎球場』である。当初は、自転車で行く『海底トンネル』をプラスするはずだったのだが、これは次回のお楽しみにとっておこう。
以前この新聞連載中に読んで興味津々だったトルコライス。そのお店の場所が母校のある武蔵小杉だったので、いつかはセットでと考えていたのだ。

まずは『高校』編。
僕の高校の卒業証書の学校名は『法政二高』となっているが、実は入学したのは『法政大学工業高校』である。僕たちが3年になる時に二高と合併(事実上は吸収された)したのだ。
学力レベルは二高の方がはるかに高かったので、ひとからはよく「ラッキーだったじゃん」などと言われたのだが、個人的には今でも『法政工業』の名のまま卒業したかったと思っている。小さな学校だったけど、けっこう誇りを持っていたんだよね。
今日は、まず元住吉駅からアプローチ。
モトスミというと思う出すことがある。あの頃は地下に改札があり、そこを出て右に進むとオレンジ色のジャケットを着た男が階段を降りてきた。まぶしかった。誰かと思ったら、永ちゃんだったんだ。スゴイ存在感だったことを思い出した。
そのモトスミは橋上駅になっていた!
商店街を歩いてみると、どうも記憶にない。これは、武蔵小杉駅へ向かう法政二高通りでも同様だった。古いお店も残っているようなのにだ。
まあ、何十年も前のことだし、考えてみれば通っていたのは僕の長い人生の中のたった3年間だもんね。とはいっても、校舎はよく覚えていたし、ほとんどそのままだった。
時計塔の校舎も、僕たちの校舎も、白くペイントされていたが、形はあのころのまま使用されていた。今は法政二中が使用しているらしい。そういえば、よくたむろしていた部室棟は撤去されていたな。


おっ、見えてきました。ここ、ここ、この校舎。今は、二中が使っているらしい。


中庭は今はアーチェリー場のようだが、当時は野球場?
お昼休みはゴムボールと角材バットでの熱戦が毎日展開されていたのを思い出した。


ここだったなあ、教室。

そして、あのころは普通だったので全く気づかなかったが(笑)、このあたりにも古くて味のある建物がけっこうありました。








「アランドロン」って…