錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

千原しのぶ

2007-11-14 13:56:35 | 監督、スタッフ、共演者
 千原しのぶは、細長いキツネ顔と切れ長な目とあの独特な声が魅力的だった。そして、着物がたいへん似合う女優だった。ほっそりとした体型もあるが、なで肩で首筋が長いので、襟元が美しく、まるで浮世絵から抜け出したようであった。江戸時代の美人とはこういう女を言うのではないかと思った。千原しのぶは、日本舞踊をやっていたこともあり、それで着物を着た時の所作振舞いも引き立って見えたにちがいない。
 彼女はどんな着物もぴったりと着こなしていたが、『濡れ髪二刀流』の衣装はとくに粋で、大変良く似合っていたと思う。前半は、格子縞の生地に黒い襟の付いた着物で、後半は着替えて、紅葉をあしらった生地でこれも黒い襟の着物だったと思う。映画がカラーでないのが残念だった。
 若い頃錦之助と共演した時の千原しのぶは純情な娘役が多かった。町娘、武家娘で、お姫様役はなかったと思う。錦之助の恋人役を演じた最初の映画は、『唄ごよみ・いろは若衆』であるが、残念ながらこの映画を私は観ていない。スチール写真を見る限り、二人ともアツアツで大変いい感じである。錦之助が股旅やくざを演じた記念すべき第一作にもかかわらず、今では観たくても観られない映画の一本である。
 『越後獅子祭り』では、宿屋での風呂場のシーンがほほえましかった。あれは男女混浴の風呂だったのだろうか。錦之助が脱衣所に入ると、千原しのぶがすでに湯船にいて、大あわて。タオルを間違えて、持って行ってしまう。しばらくして今度は逆に千原しのぶが、タオルを持って風呂場へ行くと、錦之助が湯船にいて、顔を赤らめるという場面である。が、この映画で二人は恋人同士にはならずに終わってしまった。
 『悲恋おかる勘平』『獅子丸一平』『怪談千鳥ヶ淵』『晴姿一番纏』では、錦之助と千原しのぶがラヴラヴ状態になった。前々回、錦之助がおんぶした女優のことについて書いたが、千原しのぶは軽量なので、錦之助も楽だったことだろう。『獅子丸一平』ではおんぶしたまま山の斜面を下りていくし、『晴姿一番纏』では街道を歩いていくが、どちらもかなりの距離を進んだと思う。『怪談千鳥ヶ淵』は、私の好きな映画だが、千原しのぶは遊女役だった。錦之助と心中するのだが、自分だけ死んでしまい、化けて出ることになる。色気はないが、なんとも奇麗な幽霊だった。
 私はどちらかと言えば、初期の共演作より、『濡れ髪二刀流』のお竜やこの映画の後に撮った『水戸黄門』(1957年)の中で女スリの役を演じた千原しのぶが好きである。『水戸黄門』では同じスリの宇之吉(錦之助)との掛け合いが面白く、粋なお姐さんという感じで良かった。オールスター映画『任侠東海道』(1958年正月)で桶屋の鬼吉(錦之助)の恋人役をやった千原しのぶも風変わりで良かった。初めは女乞食で汚い身なりだったが、鬼吉に着物を買ってもらい、色っぽい女に変身する。後年の映画『若き日の次郎長・東海一の若親分』(1961年)では、錦之助の相手役ではなかったが、悪親分ドモ安の女房で、女郎の売買を手伝っている千原しのぶが大変魅力的だった。感情をぐっと抑えた一見無表情な演技なのだが、クールな中にも女の情念が埋もれ火のように燃えていて、年増女の魅力をかもし出していた。
 千原しのぶは、『濡れ髪二刀流』の直前に撮った『暴れん坊街道』で内田吐夢監督の指導を受け、演技開眼したと言われているが、私はこの映画を観ていない。だから、どういう演技をしたのかも分からない。ただ、その後、同じ1957年に作られたマキノ雅弘監督の『仇討崇禅寺馬場』での千原しのぶは良かった。マキノの映画にしては暗くて陰惨な作品であるが、彼女は主演女優賞に値する迫真の演技をしていた。(了)



『源氏九郎颯爽記』(その七)

2007-11-14 11:33:49 | 源氏九郎颯爽記・剣は知っていた
 『濡れ髪二刀流』で織江を演じた田代百合子は、加藤泰監督に相当しごかれたのではないかと思われる。織江が刀を抜いて九郎を突き刺そうとする場面が二度あるが、どちらの場面もこの映画の見どころになっていた。田代百合子が一生懸命やっているのがありありと分かり、それが思いつめた女の一念を表わすことになって、効果を上げていた。
 一度目は死んだ要之進の菩提を弔う寺の中だった。寺の本堂で九郎に襲いかかるのだが、いかにも運動神経が悪そうで体の重い織江は九郎に軽くいなされてしまう。勢い余って仏壇の前で転んだ時に、要之進の位牌が仏壇から転がり落ちる。九郎はその位牌を元の場所に据えて、去っていく。その後姿を見やった後で、織江は振り返って仏壇の位牌に目をやる。この同じ動作を織江は二度繰り返す。もちろん、位牌が落ちることも、織江のこうした動作も原作には書かれていない。加藤泰の演出の粘っこさである。
 二度目は、九郎が泊まった長屋(大坪左源太の居宅)でのシーンだが、夜中に九郎が外に人の気配を感じて、雨戸を開けると、織江が雨の中を亡霊のように佇んでいる。今の言葉で言えば、女のストーカーである。刀を構え、じっと九郎を見つめて、哀願するような表情を浮かべている。そんなところに居ないで中に入りなさいと九郎に言われ、織江はほっとしたにちがいない。いや、内心嬉しかったことだろう。私の気持ちがやっと通じたのかもしれないわ、といった心境だ。結局、織江は九郎に自分の大切な使命を打ち明けられ、仇討をあっさり断念してしまう。
この後、織江は長屋に居つき、押しかけ女房のようになって、ひたすら九郎の身を案じ、九郎のために尽くす。こうして、織江は束の間の女の幸せをつかむのだが、その憐れな最期は書かずにおこう。

 源氏九郎を慕う女として、織江のほかに、放れ駒のお竜が登場する。老中に雇われた密偵のようなこの役を演じた千原しのぶも印象に残る。こうした鉄火肌の姐御役は千原しのぶには珍しいが、これがまた大変良かった。吹き矢を使ったり、啖呵を切ったり、酔っ払ったり、縄で縛られたり、短銃を撃ったり、大活躍だった。
 お竜も織江同様、源氏九郎に一目惚れに近かった。が、初めは弟分の留吉(桂小金治)の手前、惚れたことを隠し、突っ張っていた。
 お竜と留吉が九郎の泊まっていた宿屋に忍び込み、火焔剣を盗もうとして九郎に捕まり、それでも逃がしてもらうシーンは、加藤泰得意の長回しだった。ワン・ショット、2分以上あったと思う。カメラはずっと固定した状態ではなく、人物の動きに従ってパンするが、それにしても長いショットだった。九郎が布団で寝ているところから始まって、お竜、九郎、留吉、宿屋の番頭たちが次々に出てきて演技するのだから、芝居を見ている感じである。お竜は布団の上に坐り込み、「さ、なんとでもおし!」と開き直る。九郎は「まともな人間の生き方とはどんなものか、考えてみろ」と言って、お竜と留吉を許してやる。この時点で、お竜は九郎にぞっこん首っ丈になったのだろう。
 織江が九郎と同じ長屋に居るのを知った時など、お竜はヤケ酒を飲む。千原しのぶが酔っ払った演技をするのは多分これが初めてだったと思うが、熱演だった。ずいぶん意欲的な演技をするものだと、その心意気に私は感心してしまった。お竜は仙道鬼十郎に殺されかかり、九郎に助けられる。また助けられて、お竜はまともな人間になろうと決心する。それからは、源氏九郎のことを「源さん」と呼ぶほどの入れ込みようで、命がけで九郎に尽くす女になる。
 『源氏九郎颯爽記・濡れ髪二刀流』の映画の良さは、主人公の源氏九郎が自分を慕う二人の女(織江とお竜)の生き方を正しく導き、幸せにしてやるところにあったのではないかと思う。九郎は、この二人の愛を受け入れ、どちらに対しても優しく接する。妻にするとまでは言わないが、責任をもってできるだけのことはしてやる。その九郎の真心が、二人の女との接し方ににじみ出ていたと思う。錦之助の源氏九郎は、美しいとか強いとかいう表面的な魅力だけではない。博愛精神のような心の優しさがあって、そこが良かったのだと思う。
 (この映画には、もう一人、源氏九郎に惚れる女として磐城屋の娘が出てくるが、原作にもないこんな役をなぜ作ったのか、首をかしげたくなる。なにしろこの役を演じた女優が下手糞で見ていられないのだ。会社の方針でこの女優を売り出すように言われ、加藤泰もやむを得ず使ったのかもしれない。)(つづく)



田代百合子

2007-11-13 17:23:47 | 監督、スタッフ、共演者
 今回は、ついでにと言っては何だが、田代百合子について語ってみたい。以前は、錦之助の共演女優の記事を書いたこともあったのだが、ずっとお休みしていた。ここらで、そうした記事を復活させるのも良いかもしれない。映画論ばかりだと、読んでいる皆さんも飽きてくるし、書いている私の方も、筆が進まず、記事が滞りがちになる。本当は共演男優についても書かなければならないと思うのだが、男である私は、当然のことながら女優の方に数倍の興味がある。お許し願いたい。
 田代百合子は、『濡れ髪二刀流』で錦之助との共演が最後になった。その後すぐに東映を辞めてしまったからだ。東映を退社してからは大映や松竹の映画に出ていたらしいが、私が覚えているのは、小津安二郎の『秋日和』で誰かの娘役をやっていた田代百合子だけである。
 思えば、『笛吹童子』以来三年間、田代百合子は錦之助の相手役を何度も務めてきた。『里見八犬伝』『お坊主天狗』『新選組鬼隊長』『海の若人』『あばれ振袖』『赤穂浪士』『紅だすき素浪人』『ヒマラヤの魔王』などが錦之助との共演作である。
 『笛吹童子』で彼女が演じた桔梗という娘は、錦之助の菊丸に思いは寄せていたものの、その思いはかなえらずに終わってしまう。桔梗は、満月城の家老・上月左門の娘で、菊丸は城主の遺児だった。身分の違いがあった上に、菊丸には中国(明の国)に婚約まで交わした女がいた。所詮、かなわぬ恋だったのだろう。
 『お坊主天狗』では、小染(錦之助)に惚れる乙女のような娘役を演じた。片岡千恵蔵の妹役だったと思う。初めは、錦之助のことを美しい女だと思って惚れるレズビアン的な関係が面白かった。錦之助が凛々しい若侍に変身すると、そこでまた惚れ直す。要するに錦之助のすべてが好きなミーハーのファンみたいな役柄だった。
 『新選組鬼隊長』では、沖田総司(錦之助)の恋人役を演じた。胸を病んで床についた錦之助を甲斐甲斐しく世話する田代百合子が幸せそうで良かった。
『海の若人』での田代百合子の役は、それまでの生一本な純情娘とは違って、港町の年増芸者だった。この役はなかなか魅力的だった。田代百合子はいわくありげな田舎芸者で(といっても静岡のどこかの街の芸者である)、商船学校の若い学生(錦之助)を可愛がる。錦之助には美空ひばり(女子高校生)の恋人がいるのだが、この芸者との関係が学校の噂になって大問題となる。田代百合子が酔漢に教われて足を挫き、錦之助におんぶしてもらうシーンが印象的だった。彼女がいかにも重そうだったからだ。
 話はちょっと脱線するが、錦之助はしばしば相手役の女優をおんぶしてきた。おんぶの場面があると、錦ちゃんの女性ファンたちは抗議の手紙を錦之助に送ったそうだ。錦之助は若い頃の著書『あげ羽の蝶』の中で、ファンの方は僕が女の人を背負うことをとてもきらっているようだ、なぜだかわからないが、止めてくれと言われる、と書いている。錦之助は、ドラマで必然性があれば女の人をおんぶするのも仕方がないといった意味のことを書いて弁解しているが、女性ファンがいやがる理由ははっきりしている。女のオッパイや太ももが錦チャンの体に当たるのがいやだったのだ。話はさらに脱線するが、映画の中で錦之助がおんぶした歴代女優を挙げておこう。古い順である。美空ひばり(『ふり袖月夜』)、高千穂ひづる(『満月狸ばやし』)、千原しのぶ(『獅子丸一平』『晴姿一番纏』)、田代百合子(『海の若人』『紅だすき素浪人』)、大川恵子(『紅顔無双流』)、ざっとこんなところか。丘さとみ、桜町弘子、中原ひとみは、私の記憶ではおぶったシーンが思い浮かばない。忘れていた。『瞼の母』の中で、名も知らぬお婆さんをおぶっていた。それと、だっこした女優は、岩崎加根子(『反逆児』)、浪花千栄子(『宮本武蔵』)といったところか。
 話を戻そう。オールスター映画の『赤穂浪士』でも田代百合子は錦之助の恋人役だった。錦之助は、小山田庄左衛門という若い浪士で、さち(田代百合子)という娘にすがりつかれて、討ち入りを断念することになってしまう。
 『紅だすき素浪人』では、世津という娘で、江戸へ旅している途中、危ないところを中山安兵衛(錦之助)に救われ、道中を共にしている間に相思相愛になる。この映画の配役と登場人物の設定は、『濡れ髪二刀流』と似ていた。田代百合子は、武家の娘で、江戸に行って消息不明になった許婚(この役がまた片岡栄二郎)を探し求めていたのだが、この許婚が不良浪人になり果てていた。田代百合子は、切り傷を負い、床に伏せていたが、最後は錦之助に見取られ死んでしまう。悲しい女の役だった。(了)
 

『源氏九郎颯爽記』(その六)

2007-11-13 02:38:03 | 源氏九郎颯爽記・剣は知っていた
 『源氏九郎颯爽記』シリーズでは、三作とも主人公源氏九郎を演じた錦之助の魅力が画面全体に満ち溢れていたことは言うまでもないが、相手役の女優となると、私は第一作『濡れ髪二刀流』に登場する二人の女、織江(田代百合子)と放れ駒のお竜(千原しのぶ)が甲乙つけがたいほど良かったと思う。第二作『白狐二刀流』のマリー(へレン・ヒギンス)と志津子(大川恵子)は中途半端で、源氏九郎を慕う女の思いが描き切れていなかった。第二作は、テーマも恋愛にはなかったと思う。第三作『秘剣揚羽の蝶』では、口の利けない喜乃(北沢典子)が印象に残ったが、冴姫(大川恵子)も八重(桜町弘子)もまあまあで、私の好きな長谷川裕見子が悪女だったのが気に入らなかった。というわけで、私の評価は、ラヴストーリーとしては第一作がベストである。(ただし、錦之助の源氏九郎の美しさでは第二作がベスト、立ち回りの素晴らしさ、チャンバラの迫力では第三作がベストという、バラバラの評価になる。)
 『濡れ髪二刀流』は、恋愛映画の色合いが強かった。源氏九郎を慕う二人の女のドラマが映画を奥行きの深いものにしていたと思うので、そのことについて書いてみたい。(原作とは随分違うところがあるが、比較しても意味がないと思うので、その辺のところは触れずにおきたい。)
 監督加藤泰が自作について語ったコメントによれば、『濡れ髪二刀流』では織江というヒロインに「自分がうちこんでいける登場人物」を見出したそうである。つまり、織江という悲運の女性に、監督としての思いの丈を込めたようだ。そして、織江を演じた田代百合子は期待にたがわぬ熱演だった。
 田代百合子という女優は、鈍(どん)な感じがして、暗い影があり、おとなしいようでいて、芯の強そうな面がある。好きな男を一途に思いつめる女の役にはうってつけの女優である。やや不器用で決して演技派ではないが、東映城の初代三人娘の中では、得がたい存在だった。確か錦之助より二歳年上なので、『濡れ髪二刀流』に出演した当時、26歳だったと思う。結婚前の武家娘の役としては、いささか年増ではあるが、織江の役にはぴったりだった。
 この映画を観ていると、確かに織江という女の生き様はドラマチックで、印象に残る。織江は、許婚の早川要之進(片岡栄二郎)を神前試合で源氏九郎に討たれ、九郎を仇と見なして追いかけていく。しかし、仇討ちは口実にすぎない。本当は、九郎に恋焦がれていて、九郎を必死に追いかけることによってしか自分の生きる道が見えなくなってしまう、哀れな女だった。
 最初、織江は、家出同然のようにして、はるばる備前岡山から三島までやって来る。許婚の要之進が、三島神社で、藩に伝わる火焔剣を用い、もう一本の火焔剣の持ち主と、真偽を明らかにする神前試合をすることになったからだ。織江は要之進の身の上が心配で、追いかけて来たのだ。それにしても若くて美しい武家娘が奇麗な着物を着て、一人で岡山から三島まで来られるものどうか、疑問に思わなくもない。せめて年老いた従者の一人くらい付けるべきだったと思う。
 まあ、その辺はともかくとして、三島の宿で要之進を探している時に、織江は、ならず者の人足(星十郎)にだまされ、人気(ひとけ)のない野原で襲われる。この危ないところを織江は源氏九郎に救われ、その時九郎に一目惚れしてしまう。しかし、九郎が火焔剣を持っていたので、自分の許婚と試合をする相手にちがいないと思い、驚いて立ち去っていく。
 その後、許婚の要之進に久しぶりに再会するものの、なぜか彼が冴えない男に見えてしまう。織江は、池のほとりで要之進と二人だけになるが、九郎に出会ってからは、要之進に対して急に熱の冷めてしまった自分に気付く。要之進に関係を迫られるが、何度も「いけません」と言って拒んで女の操を守る。
 要之進が神前試合をする時の織江の気持ちは複雑だったにちがいない。この神前試合のシーンで、加藤泰は織江のカットをところどころに挿入するのだが、心変わりした女の気持ちが映像的に実にうまく描かれていて、私は感心してしまった。境内に九郎がやって来た時、織江は「源氏様!」と思わず声を上げる。九郎に会釈した時、織江は彼にまた会えた嬉しさを抑え切れなかったのだろう。試合が始まり、源氏九郎の刀が折れた時には「あっ!」と言って叫ぶ。前の晩、織江はあれほど要之進に、絶対試合に買ってくださいと懇願していたのに、どうしたわけか、心の中では九郎を応援していたのだろう。要之進が討たれた後、織江は彼の亡骸におずおずと近寄って来る。が、手前で立ち止まってしまう。普通なら、抱き付いて泣き叫ぶところなのに、そうはしない。最後は要之進の亡骸の傍らに屈みこんで、呆然としている。立ち去っていった九郎ことに思いを馳せていたのだろう。(つづく)



『源氏九郎颯爽記』(その五)

2007-11-07 21:31:15 | 源氏九郎颯爽記・剣は知っていた

 映画『源氏九郎颯爽記』のシリーズを観ていていつも感じることは、原作の映画化には脚本家も監督も大変苦労したのではないか、ということである。加藤泰監督による第一作、第二作もそうだし、伊藤大輔監督の第三作もそうである。
 これは、小説と映画との表現上の違いに原因があるのかもしれない。子供向きの映画ならいざ知らず、大人向きの映画ではウソが通用しにくい。小説なら、筋立てや登場人物の設定に多少無理があっても、文章の説得力で通ってしまう。柴田錬三郎は、ウソを本当に思わせるような説得力が特長で、想像性の豊かなフィクションや伝奇ロマンを書かせたら、戦後の作家の中では指折りの名手である。が、彼の時代小説は、写実性の強い映画によって表現するのは難しいのかもしれない。
 それと、加藤泰にしろ、伊藤大輔にしろ、監督自身が柴田錬三郎とは作風が違い、原作の愛読者ではなかったような気もする。柴田錬三郎はロマン主義的な作風で、伊藤大輔と加藤泰はリアリズムの傾向が強い映画作家だからである。しかも、二人の監督は個性が強く、反骨精神も旺盛である。だから、二人とも、原作の方向に沿って内容を補い、その面白さを引き出そうという意欲が湧かなかったのかもしれない。

 錦之助は、『源氏九郎颯爽記』第一作の最初から完成した美青年剣士として登場し、最後までその完成形を崩さない。源氏九郎は、心の動揺も感情の起伏もあまり見せないスーパーヒーローである。眠狂四郎は暗いが、九郎は明るくて楽天的である。人間的な苦悩を見せず、どんな苦難にも立ち向かい、神業を演じて克服してしまう。その意味では人間離れした化け物的ヒーローである。
 剣は無敵なほど強い。源氏九郎がマスターした「秘剣揚羽蝶」は、知る人ぞ知る剣技であるが、誰も見たことのない秘術である。二刀流で、両手を水平にして二刀の切っ先を直立させる構えである。この取って置きの秘術を繰り出す時には、一瞬にして敵を斬り倒す。第一作で早川要之進(片岡栄二郎)と神前試合をした時、第二作のラストで新海一八郎(岡譲司)と決闘した時がそうだった。
 女に対しては、憐れみを感じることはあっても、決して心を許さない。織江に対しても、放駒のお竜に対しても、また志津子に対してもそうである。女に優しく接しても、惚れることはない男、いや、男ではないような気もする。性を超越した存在のようだ。
 柴田錬三郎が描いた源氏九郎はそうした超人であり、錦之助がこの主人公を好んでいたかどうかは別として、彼は原作に生真面目なほど忠実な役作りをしている。錦之助という役者は、いつもそうなのだが、原作を熟読し、主人公を納得のゆくまで把握してからでないと演じない。そこが錦之助の偉いところである。
 とはいえ、源氏九郎という摩訶不思議な人物は、演じるのが非常に難しかったと思う。錦之助は喜怒哀楽の表現が非常にうまい役者である。その彼が、激しい感情を押さえ、美しい容姿と落ち着いた立居振舞いと明瞭で抑制のきいたセリフ回しで演技し続けている。他の俳優がやったら、人形かロボットのようになってしまうところだろう。
 錦之助の源氏九郎は目映いばかりに綺麗である。それにカラッとした明るさと愛嬌がある。第一作『濡れ髪二刀流』の源氏九郎は、若々しく、あどけなさすら感じる。編み笠を取って初めて顔かたちを現した時の錦之助は、可愛らしいほど魅力的だった。
 このファーストシーンは忘れもしない。九郎は山道から真っ白な着物姿で現れる。仙道鬼十郎(羅門光三郎)に対し、笠をかぶったまま「おぬしは、卑怯者だな」と言ってから、ちょっとした攻防戦があって、鬼十郎が「名をなのれ!」と言うや、おもむろに笠をとる。「姓は源氏、名は九郎、おぼえてくれとはたのまぬ」と言い、ニコッと笑ったと思う。右手には山百合の花か何かを持っていた。「なにを!」と言って斬りかかる鬼十郎に対し、さっと剣を抜き、すぐに左手で鞘に納める。すでに鬼十郎の右腕を斬っていたのだ。目にも留まらぬ早業だった。
 『濡れ髪二刀流』で二度目に源氏九郎が登場するのは、月夜の晩、織江がならず者の人足たちに襲われ、犯されそうになった時である。人足の頭(星十郎)が「見ているのはお月様だけだよ」と言うと、「もう一人ここにいる」と言って源氏九郎が颯爽と現れる。「わしはな、むこうの森に住む古狐だ。」このセリフを言う時の錦之助の表情は、茶目っ気があって実に良い。助けられた織江(田代百合子)が九郎に一目惚れしてしまったのも無理はない。(つづく)