内田吐夢の著書『映画監督五十年』(三一書房刊)を読んだ。1968年10月発行、吐夢が死ぬニ年前に書いた自伝である。この絶版本は、先日神田の古本屋でたまたま見つけたものだが、なんと内田吐夢の署名入りだった。定価350円のところ5,250円の値が付いていたが、私が敬愛する映画監督内田吐夢の稀少本とあれば、何はともあれ、買わなければならないと思った。見返しの扉に筆で「藤様 謹呈 吐夢」と書いてある。きっと吐夢がなじみの芸者か飲み屋の女性に贈った本が市場に出回ったのであろう。まさか藤純子に上げたものではあるまい。吐夢に関する評伝としてはシナリオ・ライター鈴木尚之の『私説内田吐夢伝』があるが、私は二度熟読し、今でも時々拾い読みしている。吐夢自身の著書『映画監督五十年』を下敷きにしながら、鈴木尚之が吐夢の聞き書きや自らの体験や感想を盛り込み、精魂込めて書いた力作である。私はこの『内田吐夢伝』を愛読しているため、そこに度々引用される『映画監督五十年』という吐夢の本もぜひ読みたかった。これでやっと念願がかなったというわけだ。
内田吐夢という人は、情熱家と言おうか、ほとばしるような激情に自ら浸る傾向がある一方、自己韜晦癖もある人である。ユーモラスな文章を書くが、時には読者を煙に巻くようなところが見られる。
『映画監督五十年』は三部構成になっていて、第一章 青春放浪記、第二章 十年間の満州、第三章 戦後の記録、である。いちばん面白かったのは第一章だった。岡山での幼少時代の思い出、横浜のピアノ工場での徒弟奉公、軍隊生活と続き、映画界に係わりながら放浪生活を送る。このあたりが興味深かった。映画監督だけあって、情景描写がシナリオ的で、目に浮ぶようなのだ。人間模様も鮮やかに描かれていて、吐夢版の『人生劇場』といった感じを受けた。日雇い人足や旅芸人をしながら、社会の底辺に長らく沈潜していたが、友人の紹介がきっかけで映画界に戻り、監督業につく。
吐夢の文章を読む限り、人生に対する慨嘆はあっても、挫折感はなく、劣等感を抱くどころか逆に自信満々で、自らを放浪の芸術家と見なしていた印象を受ける。これは、映画監督として巨匠の地位を築いた後に書かれた自伝でもあり、過去を肯定的に振り返っているからとも言えるが、それにしても前向きで楽観的な考え方の持ち主だと思った。戦時から戦後にかけて満州での長い滞在が吐夢の人生観を大陸型に変えたのかもしれない。
<壮年期の吐夢>
第二章は、映画とはあまり関係ない話で、やや冗漫な記述が多かったが、最後の「正念場に立つ」という文章は、吐夢の映画論を語るうえで大いに参考にすべき点を含んでいた。
吐夢は満州で毛沢東の『矛盾論』をむさぼり読み、映画のクライマックスとは何かが分かったと言う。私なりに要約すると、こうだ。まず、芝居(ドラマ)とは、異なった人間の感情、性格、思想、立場、利害関係の絡み合いであり、そして、人間が集まれば、必ずなんらかの対立関係が生じ、相剋と矛盾と混乱が起こる。その最後のどんづまり、身動きならぬ最大の矛盾点に達したとき、大爆発が起こって解決がつくが、その爆発点がクライマックスである。吐夢はこれを正念場とも呼び、ここに作家がどんな魂を設定するか、それこそ作家の正念場である、と結んでいる。
吐夢の映画を思い浮かべると、最後のクライマックスがまさに爆発的だったことに気づく。さまざまな対立関係が飽和状態に達し、大爆発し、一挙に結末に向かう。『血槍富士』や『花の吉原百人斬り』や『宮本武蔵 一乗寺の決闘』の壮絶な大立ち回りがその代表例である。『浪花の恋の物語』は梅川・忠兵衛の道行き、『大菩薩峠』完結篇では、机竜之助がわが子の名を叫びながら濁流に呑み込まれるというクライマックスがあった。
話題が本の内容からそれてしまった。第三章は、戦後の映画製作にまつわるエピソードが書かれてあった。簡単な記述が多く、この辺は鈴木尚之の『吐夢伝』の方が詳しく、また読み応えもあった。第三章の終わりには、身辺雑記と題する短いエッセーが並んでいた。石の話など味わい深い文章だと思った。
内田吐夢は昭和40年代、斜陽化した日本映画界に対し常に警鐘を鳴らしていた。粗製濫造の映画作りに異を唱え、畢生の大作『東洲斎写楽』に最後まで執念を燃やした。だが、この映画は結局、製作することができなかった。内田吐夢はこの自伝を書いた二年後、宮本武蔵の番外編『真剣勝負』の完成目前に倒れ、七十二歳にして人生劇場の幕を閉じた。