錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

内田吐夢の『映画監督五十年』

2006-04-16 04:25:34 | 監督、スタッフ、共演者
 
 内田吐夢の著書『映画監督五十年』(三一書房刊)を読んだ。1968年10月発行、吐夢が死ぬニ年前に書いた自伝である。この絶版本は、先日神田の古本屋でたまたま見つけたものだが、なんと内田吐夢の署名入りだった。定価350円のところ5,250円の値が付いていたが、私が敬愛する映画監督内田吐夢の稀少本とあれば、何はともあれ、買わなければならないと思った。見返しの扉に筆で「藤様 謹呈 吐夢」と書いてある。きっと吐夢がなじみの芸者か飲み屋の女性に贈った本が市場に出回ったのであろう。まさか藤純子に上げたものではあるまい。吐夢に関する評伝としてはシナリオ・ライター鈴木尚之の『私説内田吐夢伝』があるが、私は二度熟読し、今でも時々拾い読みしている。吐夢自身の著書『映画監督五十年』を下敷きにしながら、鈴木尚之が吐夢の聞き書きや自らの体験や感想を盛り込み、精魂込めて書いた力作である。私はこの『内田吐夢伝』を愛読しているため、そこに度々引用される『映画監督五十年』という吐夢の本もぜひ読みたかった。これでやっと念願がかなったというわけだ。

 内田吐夢という人は、情熱家と言おうか、ほとばしるような激情に自ら浸る傾向がある一方、自己韜晦癖もある人である。ユーモラスな文章を書くが、時には読者を煙に巻くようなところが見られる。
 『映画監督五十年』は三部構成になっていて、第一章 青春放浪記、第二章 十年間の満州、第三章 戦後の記録、である。いちばん面白かったのは第一章だった。岡山での幼少時代の思い出、横浜のピアノ工場での徒弟奉公、軍隊生活と続き、映画界に係わりながら放浪生活を送る。このあたりが興味深かった。映画監督だけあって、情景描写がシナリオ的で、目に浮ぶようなのだ。人間模様も鮮やかに描かれていて、吐夢版の『人生劇場』といった感じを受けた。日雇い人足や旅芸人をしながら、社会の底辺に長らく沈潜していたが、友人の紹介がきっかけで映画界に戻り、監督業につく。
 吐夢の文章を読む限り、人生に対する慨嘆はあっても、挫折感はなく、劣等感を抱くどころか逆に自信満々で、自らを放浪の芸術家と見なしていた印象を受ける。これは、映画監督として巨匠の地位を築いた後に書かれた自伝でもあり、過去を肯定的に振り返っているからとも言えるが、それにしても前向きで楽観的な考え方の持ち主だと思った。戦時から戦後にかけて満州での長い滞在が吐夢の人生観を大陸型に変えたのかもしれない。

<壮年期の吐夢>


 第二章は、映画とはあまり関係ない話で、やや冗漫な記述が多かったが、最後の「正念場に立つ」という文章は、吐夢の映画論を語るうえで大いに参考にすべき点を含んでいた。
 吐夢は満州で毛沢東の『矛盾論』をむさぼり読み、映画のクライマックスとは何かが分かったと言う。私なりに要約すると、こうだ。まず、芝居(ドラマ)とは、異なった人間の感情、性格、思想、立場、利害関係の絡み合いであり、そして、人間が集まれば、必ずなんらかの対立関係が生じ、相剋と矛盾と混乱が起こる。その最後のどんづまり、身動きならぬ最大の矛盾点に達したとき、大爆発が起こって解決がつくが、その爆発点がクライマックスである。吐夢はこれを正念場とも呼び、ここに作家がどんな魂を設定するか、それこそ作家の正念場である、と結んでいる。
 吐夢の映画を思い浮かべると、最後のクライマックスがまさに爆発的だったことに気づく。さまざまな対立関係が飽和状態に達し、大爆発し、一挙に結末に向かう。『血槍富士』や『花の吉原百人斬り』や『宮本武蔵 一乗寺の決闘』の壮絶な大立ち回りがその代表例である。『浪花の恋の物語』は梅川・忠兵衛の道行き、『大菩薩峠』完結篇では、机竜之助がわが子の名を叫びながら濁流に呑み込まれるというクライマックスがあった。
 
 話題が本の内容からそれてしまった。第三章は、戦後の映画製作にまつわるエピソードが書かれてあった。簡単な記述が多く、この辺は鈴木尚之の『吐夢伝』の方が詳しく、また読み応えもあった。第三章の終わりには、身辺雑記と題する短いエッセーが並んでいた。石の話など味わい深い文章だと思った。
 
 内田吐夢は昭和40年代、斜陽化した日本映画界に対し常に警鐘を鳴らしていた。粗製濫造の映画作りに異を唱え、畢生の大作『東洲斎写楽』に最後まで執念を燃やした。だが、この映画は結局、製作することができなかった。内田吐夢はこの自伝を書いた二年後、宮本武蔵の番外編『真剣勝負』の完成目前に倒れ、七十二歳にして人生劇場の幕を閉じた。



『海の若人』

2006-04-08 17:16:54 | 海の若人

 チョンマゲをしていない若いわかーい錦之助が見られる映画だった。
 『海の若人』は、昭和30年4月公開の青春現代劇、なんと錦之助が詰襟、美空ひばりがセーラー服で登場、それだけでも一見に値する作品だった。なぜ、こんな古い映画のビデオが出ているかといえば、やはり美空ひばりの力が大きいのかもしれない。ひばりファンは今でも圧倒的に多く、根強い。
 それはともかく、錦之助が主演した唯一の青春現代劇であるこの映画、私はどうしても見たかった。そこで、インターネットで中古ショップを探し回り、やっと手に入れ、見ることができた。
 内容は期待していなかった。アイドル主演の学芸会みたいな、よくある青春ドラマに違いないと思っていた。それが、見てみると、良い意味で予想はずれ、案外感動的な物語であった。ちょっとあらすじを書くと…。

 ドラマの主人公(もちろん錦之助)は山里英一郎という名の大学生。彼は全寮制の商船学校に通っている。死んだ父親は船長で、母親の仕送りを頼りに、海での訓練や勉学に励んでいる。いつか父親みたいな名船長になりたい。母親もそれを切望し、故郷信州で一生懸命働いている。しかし、優等生の山里は商船学校の生活に不満を抱いている。規律を守らない学生もいて、寮に住む学生達の気持ちはバラバラ。シーマンシップを養う気概もなければ、連帯感もない。そこで革新運動に乗り出し、自治委員長に立候補し当選する。彼には船員になった憧れの先輩がいる。その妹の雪枝(美空ひばり)とは互いに心を寄せ合っている。
 ここからドラマが始まるわけだが、話を戻すと、錦之助がなにしろ若い。この時、22歳である。時代劇のメイクもなく、髪も普通で、素顔のまま。詰襟の学生服もよく似合う。その甘いマスクと痩せたスタイルは、今で言うジャニーズ系である。男っぽさは感じないが、母性本能をくすぐるタイプとでも言おうか。気が弱そうで一見頼りないが、品は良い。一方、美空ひばりは、どうも大人びて見える。錦之助より5歳下(つまりこの時17歳)にはとても見えない。セーラー服を着ていてもおかしくない年頃なのに、年齢を偽っているような感じなのだ。

 さて、あらすじの続き。山里が自治委員長に当選し、革新運動を行おうとした矢先。酔漢に襲われた芸者(田代百合子)を助けたことから、反対派に芸者との仲を追及され、窮地に立たされてしまう。仲間の学生達の信頼も揺るぎ始め、不信任案が提出される。彼を疑った雪枝からは絶交を言い渡たされる。母親は狭心症で倒れる。ついに山里は自主退学を決意する。まだこれから話は展開していくが、私はだんだんドラマに引き込まれてしまった。

 この映画の原作は雑誌「平凡」に連載されていた懸賞小説で、当時評判を呼んでいたらしい。東映がこれを映画化したわけであるが、すでに押しも押されぬ人気スターで、これまで時代劇のヒーローだった錦之助を、なぜこの映画の主役に使ったのか、その辺の裏事情は分からない。ただ、こうした現代の青春ドラマに錦之助が出演したことに対し、多くのファンはびっくり仰天したという。批判や苦情もたくさん寄せられたそうだ。が、しかし、錦之助がもしこのような青春映画にその後も出ていたとしたら、結構イイ線まで行ったのではないか。この映画を見て私はそう思った。加山雄三の『若大将』シリーズも良かったが、それとははまったく違う錦之助の『若大将』シリーズも見てみたかったものだ、なんて、今ひとり勝手な空想にふけったりしている…。


『風林火山』

2006-04-07 12:01:12 | 戦国武将

 ビデオで『風林火山』(1969年)を観た。この映画は封切りの時映画館で観たのを覚えている。確か渋谷東宝だった。初日だったからか、主演の三船敏郎が映画館に来て、上映前に挨拶をした。三船自身のプロダクションで、総力を上げてこの映画を製作したので、自らも宣伝して回らなければならなかったのだろう。あの頃は錦之助をはじめ、裕次郎、三船、勝新などが次々とスター・プロを設立し、映画を作っていた。錦之助の『祇園祭』(1968年)がその先鞭をつけた作品だった。この映画には三船敏郎が友情出演したが、その代わりに今度は三船プロの『風林火山』に錦之助が出演したというわけだ。
 『風林火山』は、当時の信玄・謙信ブームに乗って、大ヒットした。三船と錦之助の競演だけでなく、裕次郎まで特別出演したからでもあった。井上靖の原作もベスト・セラーになり、高校生の私も映画を観てから早速この原作を読んだものだ。武田の旗印である「風林火山」は流行語にもなった。(静かなること林の如く、動かざること山の如し、は思い出すが、風と火はなんであったか?)

 前置きが長くなった。37年ぶりに観た映画の感想を述べなければならない。まず、前に一度観たと言っても、初めて観たのと同じだった。感動した映画は、あとあとまで印象的だった場面を覚えているものだが、この映画はそうではなかった。正直言って、見ている途中から、まあまあだな、という感想を持った。
 『風林火山』は決してつまらない映画ではなかったが、期待はずれで失望した。戦国物としてはこれ以前の東映作品の方がずっと良く出来ていると感じた。たとえば、錦之助の出演した映画で言えば、『独眼竜政宗』や『風雲児織田信長』や『徳川家康』の方が作品的にも優れていたし、錦之助自体も輝いていた。それは、第一に脚本の完成度の差にあると言えるかもしれない。『風林火山』は、脚本が練れていなかった。何よりも登場人物に関し、その人間関係と心理の描写に食い足りなさを感じた。前半では、一介の浪人だった山本勘助(=三船敏郎)が武田家の重鎮に取り入り奉公することになるのだが、勘助が領主の晴信(信玄=錦之助)の信任を得ていく、その理由付けが弱かった。諏訪城主頼茂を殺害する決断も唐突である。また、勘助が諏訪の姫君(=佐久間良子)を慕う気持ちは分かるが、思い入れを表現する部分が足りないと思った。後半は、勝頼の成長と、信玄と上杉謙信(=石原裕次郎)の合戦が話のメインになるが、焦点があいまいで、クライマックスが盛り上がらなかった。要するに、話の運びが速いわりに、観客を十分納得させないまま進んでいくので、いささか白けた気分を味わってしまうのだ。

 映画は監督の技量と情熱にもかかっている。『風林火山』の監督は稲垣浩だったが、脚本の段階で彼がどの程度かかわっていたのかは不明である。出来合いの脚本を変更もせずただ監督したように思えてならない。高齢で、気力が充実していなかったのかもしれない。この映画、無難に仕上がってはいるものの、画面から物凄い迫力のようなものが伝わってこなかった。戦闘シーンですらそうだった。脚本の完成度が低く、監督の情熱も足りなければ、その他のスタッフがいくら頑張ろうとも、良い映画はできない。出演者にいくらスターや名優を揃えても、同じである。
 三船敏郎はほぼ出ずっぱりで、精一杯の演技をしていたが、黒澤作品で見せたような野性味や気迫は半減していた。錦之助はと言えば、もうこの頃は貫禄たっぷりで、七、八分の力で演技していたような気がした。ただ、武田信玄のイメージと錦之助がどうしても結びつかず、キャスティングに不満を覚えた。逆に三船が信玄で、錦之助が勘助の方が良かったのではないかとも感じた。佐久間良子は熱演だったが、姫君役では十分魅力を出し切れないなと思った。映画が作品的にまあまあの出来だと、登場人物を演じる俳優もそう見えてしまうから不思議なものだ。石原裕次郎は、セリフ一つなく、顔見世にすぎなかった。話題性を得るため、名前だけ借りたのだろう。別にこれなら出演する必要もないと思った。出演者で目に付いたのは、脇役の緒形拳と中村翫右衛門だった。




千原しのぶの思い出

2006-04-07 06:09:11 | 監督、スタッフ、共演者

 千原しのぶは、幼少の私が初めて顔と名前を覚えた映画女優だった。物心つく前から東映の映画を見始めていたことはすでに書いたが、私が生まれて初めて美しいと思い、その名を意識して頭に刻み込んだ女優第一号は、千原しのぶだったような気がする。
 その頃、東映映画に出演した美空ひばりも私は奇麗だと思い、好きだった。が、美空ひばりは、女優というよりそれ以前に歌手として有名だったから、別にあえて名前を覚える必要もなかった。それに、ひばりは、映画に出演すれば主役か特別出演といった別格で、ひと際目立っていた。それに対し、千原しのぶはほとんど脇役で、男優のスターたちに華を添える地味な存在だった。東映の時代劇が男優中心だったから、それも仕方がないが、彼女が東映には欠かせない女優だったことも確かである。
 当時東映には三人娘と言って、高千穂ひづる、田代百合子、そして千原しのぶが揃っていたが、千原しのぶがいちばん活躍していたし、ファンも多かったように思う。他の二人はどうも印象が薄く、高千穂ひづるを私が認知したのは隠密剣士の大瀬康一と結婚した頃で、ずっと後になってからだ。田代百合子は、いつの間にか東映から消えてしまったのでよく覚えていない。その後、丘さとみ、大川恵子、中原ひとみ、桜町弘子、北沢典子、花園ひろみなどが出てきて、東映女優陣も層が厚くなっていく。間もなく私は丘さとみのファンになるが、千原しのぶのことはずっと気に留めていた。ただ、脇役でも彼女の出番がだんだん少なくなっていくのには同情していた。

 千原しのぶは、何と言っても、その声に特徴があった。どう表現したらよいか、か細くてハスキーな声である。今でも声だけ聞けば、私は彼女だと分かる自信がある。もちろん、あの瓜ざね顔も忘れはしない。浮世絵から抜け出したような美人とでも言おうか。目元涼しく、鼻筋がすっと通り、首が長い。いつも着物だったが、スタイルも良かったと思う。出演した映画の場面は申し訳ないことにあまり覚えていないのだが、颯爽と登場したという印象は残っている。それと、彼女が悪漢やならず者に襲われるシーンはハラハラドキドキして見ていた。どの映画だか忘れてしまったが、お姫様役の千原しのぶが悪者に縄で縛られ監禁されることがあった。その時など、子供心にエロティックな刺激なようなものを感じたのを覚えている。

 先日、『千原しのぶ』(ワイズ出版刊)という本を買った。本といっても写真集だが、多くの写真を眺めることができて、とても懐かしく感じた。後ろにインタヴュー記事が載っていて、彼女自身がいろいろ東映時代の裏話をしているのも面白かった。




『反逆兒』

2006-04-06 00:30:41 | 反逆児


 荘厳にして凄絶な戦国悲劇。運命に押しつぶされていく武将の生き様を錦之助が見事に演じ、巨匠伊藤大輔がまさに入魂の演出をして完成させた格調高い傑作である。時代劇にして、時代劇を超えた作品とでも言おうか。きっとこの映画を観た人は、まるでギリシャ悲劇かシェイクスピア悲劇を鑑賞したかのような錯覚にとらわれ、胸の奥深くで地響きが鳴るような感動を覚えるだろう。
 
 舞台は、徳川の領地三河の岡崎。時代は、織田信長の天下統一の頃。主人公は、三郎信康という悲運の武将である。
 なぜ悲運か。一国の城主として武勲の誉れ高く、天下を取るほどの才覚と技量を持ちながら、出生の運命に弄ばれ、若くして滅びなければならなかったからである。
 徳川家康を父とし、今川義元の直系を母としたことが、三郎信康の生きる道を阻む。しかも、妻は織田信長の娘である。三郎信康は、父にも母にも義父にも反逆できず、いわば三叉路に立ち止まったまま身動きが出来ない。信康は述懐する、「四方を厚い壁にふさがれて、突き破れない」と。
 父家康は、お家大事とばかり、織田信長の権勢に屈している。母築山御前は、夫家康にうとんじられ、岡崎の城内に押し込められている。ただひたすら今川家の再興を祈願し、息子信康だけが生きる支えである。信康と妻徳姫の間には、女子はいるものの、嫡子の男子は生まれていない。築山御前はそれを喜びさえしている。信長とは血縁のない別腹から嫡子が生まれることを望んでいる。姑と嫁の仲は険悪である。姑は、今川家を滅ぼした信長もろとも嫁も呪い殺そうとさえしている。
 三郎信康の家来は、つわもの揃いで、主君を担ぎ、信長に代わって天下を取らそうと願っている。こんな八方ふさがりの状況で、信康が生き延びる道があるだろうか。

 戦国乱世は、人の生が人の死によってあがなわれる世界である。人が生きるためには人を滅ぼさなければならない。信康は、反逆児だったからではなく、反逆児と見なされたがゆえに、死ななければならない。
 信長にとっては、将来を嘱望された三郎信康が邪魔者である。今川家の血筋も根絶やしにしたい。そこで、家康を追い詰め、息子信康を断罪するように仕向ける。信長に反逆の罪を負わされ、父家康によって、自刃を命じられる。信康は父も母もそして妻も恨むことができずに、血で血を洗う乱世のなかで、無念にも死んでいく。

 ラストの切腹シーンが圧巻である。信康の無念さと側近たちの断腸の思いが、荘厳な様式美の中に凝縮されている。信康が割腹しているのに、家来(東千代之介と安井昌二)が何度刀を構えても介錯できない。この描写がすさまじい。
 信康は腹に突き立てた刀をぐっと押さえ、辛抱する。最期の最期まで辛抱しなければならないこの信康の姿は、彼の全人生を集約させたとでも言える象徴的場面である。
 「うろたえるな、未熟者め!」と最愛の家来を叱咤し、首をはねさせる信康の潔さと品格。脳裏に焼き付いて、いつまでに離れない。

 共演者では、築山御前を演じた杉村春子が鬼気迫る演技で、嫉妬と怨念に身を焦がさんばかりのすさまじい女を表現し、信康の妻役の岩崎加根子も高慢で愛情に飢えた女を巧みに演じている。杉村の姑と岩崎の嫁の対決もこの映画の見どころと言えるだろう。


*『反逆児』の原作である大佛次郎の戯曲「築山殿始末」と伊藤大輔による映画化までの経緯は改めて書く予定。(2019年2月3日一部改稿)