錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『反逆兒』

2006-04-06 00:30:41 | 反逆児


 荘厳にして凄絶な戦国悲劇。運命に押しつぶされていく武将の生き様を錦之助が見事に演じ、巨匠伊藤大輔がまさに入魂の演出をして完成させた格調高い傑作である。時代劇にして、時代劇を超えた作品とでも言おうか。きっとこの映画を観た人は、まるでギリシャ悲劇かシェイクスピア悲劇を鑑賞したかのような錯覚にとらわれ、胸の奥深くで地響きが鳴るような感動を覚えるだろう。
 
 舞台は、徳川の領地三河の岡崎。時代は、織田信長の天下統一の頃。主人公は、三郎信康という悲運の武将である。
 なぜ悲運か。一国の城主として武勲の誉れ高く、天下を取るほどの才覚と技量を持ちながら、出生の運命に弄ばれ、若くして滅びなければならなかったからである。
 徳川家康を父とし、今川義元の直系を母としたことが、三郎信康の生きる道を阻む。しかも、妻は織田信長の娘である。三郎信康は、父にも母にも義父にも反逆できず、いわば三叉路に立ち止まったまま身動きが出来ない。信康は述懐する、「四方を厚い壁にふさがれて、突き破れない」と。
 父家康は、お家大事とばかり、織田信長の権勢に屈している。母築山御前は、夫家康にうとんじられ、岡崎の城内に押し込められている。ただひたすら今川家の再興を祈願し、息子信康だけが生きる支えである。信康と妻徳姫の間には、女子はいるものの、嫡子の男子は生まれていない。築山御前はそれを喜びさえしている。信長とは血縁のない別腹から嫡子が生まれることを望んでいる。姑と嫁の仲は険悪である。姑は、今川家を滅ぼした信長もろとも嫁も呪い殺そうとさえしている。
 三郎信康の家来は、つわもの揃いで、主君を担ぎ、信長に代わって天下を取らそうと願っている。こんな八方ふさがりの状況で、信康が生き延びる道があるだろうか。

 戦国乱世は、人の生が人の死によってあがなわれる世界である。人が生きるためには人を滅ぼさなければならない。信康は、反逆児だったからではなく、反逆児と見なされたがゆえに、死ななければならない。
 信長にとっては、将来を嘱望された三郎信康が邪魔者である。今川家の血筋も根絶やしにしたい。そこで、家康を追い詰め、息子信康を断罪するように仕向ける。信長に反逆の罪を負わされ、父家康によって、自刃を命じられる。信康は父も母もそして妻も恨むことができずに、血で血を洗う乱世のなかで、無念にも死んでいく。

 ラストの切腹シーンが圧巻である。信康の無念さと側近たちの断腸の思いが、荘厳な様式美の中に凝縮されている。信康が割腹しているのに、家来(東千代之介と安井昌二)が何度刀を構えても介錯できない。この描写がすさまじい。
 信康は腹に突き立てた刀をぐっと押さえ、辛抱する。最期の最期まで辛抱しなければならないこの信康の姿は、彼の全人生を集約させたとでも言える象徴的場面である。
 「うろたえるな、未熟者め!」と最愛の家来を叱咤し、首をはねさせる信康の潔さと品格。脳裏に焼き付いて、いつまでに離れない。

 共演者では、築山御前を演じた杉村春子が鬼気迫る演技で、嫉妬と怨念に身を焦がさんばかりのすさまじい女を表現し、信康の妻役の岩崎加根子も高慢で愛情に飢えた女を巧みに演じている。杉村の姑と岩崎の嫁の対決もこの映画の見どころと言えるだろう。


*『反逆児』の原作である大佛次郎の戯曲「築山殿始末」と伊藤大輔による映画化までの経緯は改めて書く予定。(2019年2月3日一部改稿)