錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『本覚坊遺文 千利休』

2006-04-19 05:42:12 | 戦国武将

 『本覚坊遺文 千利休』(1989年)は、錦之助が出演した最後の映画だった。いや、錦之助ではなく、萬屋錦之介の最後の映画だったと言うべきだろう。このとき、錦之介56歳、亡くなる8年前であった。主役の本覚坊(利休の弟子)は奥田瑛二、千利休が三船敏郎で、錦之介は織田有楽斎(織田信長の弟)を演じていた。原作井上靖、脚本依田義賢、監督熊井啓である。依田義賢と言えば巨匠溝口健二の数々の名作のシナリオライターである。熊井啓は、私の好きな監督の一人で、『忍ぶ川』『海と毒薬』『サンダカン八番娼館 望郷』などの傑作を残している。撮影栃沢正夫、美術木村威夫、音楽松村禎三も名スタッフである。
 それで、この映画、どうだったかと言うと、正直言って、何を訴えようとしているのか分からないというのが私の感想だった。この作品は娯楽映画ではない。明らかに芸術映画を目指して作った作品である。画面も美しい。音楽も素晴らしい。奥田瑛二もさりげないが最高の演技をしている。錦之介も巧みで癖はあるが見事な演技である。三船も武士のような利休だが、威厳があって良い。その他、俳優陣(男優ばかりだった)は、上条恒彦も加藤剛も芦田伸介も内藤武敏も皆良かった。それで、映画を観て感動したかというと、ノーと首を振らざるをえないのである。映画の中に引き込まれないまま、見終わってしまったのだ。傍観者のように客観的に画面を眺め、美しい映像だなーと感心し、俳優のセリフを聴き、演技を眺めて、うまいなーと感服し、回想シーンが錯綜するストーリーにもしっかり付いて行き、途中で長い映画だなーと思い、それでも我慢して見続けていたら、終わってしまった。

 翌日、この映画をまた観た。テーマは何か、この映画で脚本家と監督は何を伝えようとしているのかをもう一度確かめようと思ったからだ。まず、この映画は、推理小説の謎解きのようなストーリーである。なぜ千利休は死ななければならなかったのか、なぜ秀吉が利休に死を命じたのか、利休はどういう心境で死に赴いたのか。利休の死後27年経ってから、利休の共鳴者織田有楽斎が利休の弟子の本覚坊にこの疑問を投げかけ、二人でその答えを探り出そうとする。そして、本覚坊の回想を手がかりにして、この疑問が解明されていく。それは、戦国乱世における茶の湯の本質に根ざしていた。茶の湯というのは、武将の死への餞(はなむけ)であり、死地へ赴く武将が自らの死に対峙するのと同様に、茶の湯の道に赴く茶人も死に対峙している。利休は自らそのことを実践し、秀吉に茶人の心構えを示したのだ。二人の間にこういった結論が導き出される。有楽斎は、自決もできず茶の湯の精神をまっとうできなかった自分に対し忸怩たる思いを抱くが、ついに病に倒れる。そして、死の床で、切腹を演じ、幻の刀で本当に切腹した気になって息絶えるのだ。それを看取る本覚坊。利休や、利休の高弟たちは自決して死んだ。そして有楽斎もまがりなりにも自決の道を選んで死んだ。だが、自分はどうすればよいか。死んだ利休の幻影を追いかけていき、ここで映画は終わる。
 テーマはどうやら掴める。が、この映画によって何を訴えようとしているかが、まだ私には分からない。死に対峙する心構えを忘れた現代人に警鐘を鳴らそうとでもいうのか。戦国乱世、創生期の茶の湯の精神に帰れとでも言いたいのか。なにも映画は人に感動を与えなくともよい。しかし、観る者になにかを痛感させるインパクトがなければならない。でなければ、映画は、表現者の独白になってしまうし、何も伝わらずに終わってしまう。この映画からは、表現者が訴えかけようとする何かが(思想であれ感情であれ)、どうしても私には伝わって来なかった。

 その後私は、この映画に関する評論家の批評を探してみた。双葉十三郎の評価は四つ星(ダンゼン優秀)で最高点。(文春新書『日本映画 ぼくの300本』)しかし、コメントには何が良かったのかについて漠然としたことしか書いていない。「暗いムードの場面を基盤に重々しく古風な格調を盛ることに成功した演出も賞賛に値する。」これでは、無内容な言葉の羅列だ(耄碌じいさん!)。淀川長治も大絶賛しているわりには、下らないことしか書いていない。(河出書房新社『究極の日本映画 ベスト66』)「清水で洗うその大根の白さが目にしみる」とか、「男の花道のせい揃いの感じである」とか、「武士を知り日本を知りサムライを知らせるこの映画に私はハラキリの日本を見、事実この映画、三態の切腹をも覗かせた」なんてもう支離滅裂な文章である。こんな感じで、熱にでも浮かされた調子で、5ページにわたって長々と書いているが、淀川さんも晩年は節操がなく、外国で賞なんかもらうと(『本覚坊遺文 千利休』はベネチア映画祭で銀獅子賞を受賞したそうだ)、途端に意見を変えるから信用がならないと思った。



伊豆の乙女椿、桜町弘子

2006-04-19 02:19:14 | 監督、スタッフ、共演者
 桜町弘子は、東映三人娘(ほかに丘さとみ、大川恵子)の中でいちばん息長く東映映画に出演し続けた女優だった。お姫様役というより町娘役が多かったが、時には殺され役や汚れ役もこなし、演技力に光るものがあった。私の独断と偏見による評価から言うと、この三人娘の美人度は、大川恵子、桜町弘子、丘さとみの順だが、演技力から言うと、桜町弘子が頭一つを抜いていた。努力して進歩したと思う。ただし、この中で私が最も好きな女優は、丘さとみだった。(彼女は天性の女優のようだった。)
<桜町、丘、大川の東映三人娘>
  
 
 桜町弘子は、伊豆半島の下田の出身である。高校までずっと下田で暮らしていたのだが、卒業と同時に東映に入社する。そのきっかけが面白い。高校3年の秋、同級生が雑誌広告を見て、「全国美人写真コンクール」に無断で送った桜町の写真が東海地区第一位に選ばれてしまった。その後すぐに「ミス丹後ちりめん」に選ばれ、伊豆下田に美女ありといった評判を呼んだ。そんな折、南伊豆に『剣豪二刀流』のロケハンに来ていた東映スタッフの一行がその噂を耳にする。タクシーの運転手が最初に教えたらしい。スタッフの一行には監督の松田定次が居て、彼が興味を示したというのだから、人生分からないものだ。松田監督の紹介で、桜町は京都の東映撮影所でテストを受け、合格する。そして、東映女優の道を踏み出すことになった。(以上、前掲書『明星』の「スタア小説、ああ乙女椿の花咲けば 桜町弘子物語」からの要約である。)
 
 桜町の熱演で特に私の印象に残っているのは、伊藤大輔監督の『徳川家康』の中で演じた三河武士の後家の役である。百姓同然の質素な暮らしをしながら、女手一つで男の子を育て、主君家康による徳川家の再興を願っている、そんな年増の後家役だった。河原のような所で足が痛くて歩けない息子を少年の家康が助けておんぶしてくれる場面があった。この少年が主君家康だと知って、桜町は心を打たれるのだが、この時の桜町の表情が良かった。この貧しい後家役で、桜町は眉を剃り、確かお歯黒だったような気がするが、粗末な着物姿で、私の知る限り彼女が演じたいちばんの汚れ役だったと思う。また、荒れ果てた屋敷で、武士たちが意見の違いで争い、取っ組み合いを始めようとするときに、桜町が割って入る場面があった。男たちの料簡の狭さをなじり、貧しい暮らしを支えてきた女たちの苦労と我慢強さを訴えるのだが、そのときの桜町の形相と迫力は、凄かった。しかも同時に長いセリフをまくしたてるようにしゃべるのだ。伊藤大輔が書いた脚本のセリフは長くて難しいが、桜町はそれを見事にこなしていた。
 そういえば、伊藤監督の『反逆児』でも、桜町は悲惨な目に遭う娘役を演じていた。舟で花を運んでいる途中、偶然信康(錦之助)に見初められ、身を委ねなければならなくなる。それが悲運の始まりで、信康の母の築山殿(杉村春子)によって、嫁の徳姫に対するつら当てに利用されてしまう。信康から邪慳にされると、今度は築山殿から拷問を受け、焼きごてまで当てられて、放り出される。復讐に燃えた桜町は、徳姫に願い入る。これは、実に難しい役だったと思う。初々しい処女の花売り娘から、切ない恋心を抱く女、つらい仕打ちに耐える女、恨みを内に秘めた女、そして精根尽き果て抜け殻のようになった女まで、多分伊藤監督にしごかれながら、演じ切った。
 桜町弘子は、映画で主役になったことがない。常に脇役だった。ほんのチョイ役から、主演男優スターの相手役まで、幅広い役柄を全力で演じた。いろいろな作品に出ていたが、錦之助との共演作では、『ちいさこべ』での商家の品の良いお嬢さんが奇麗だった。後年のヤクザ映画では、『総長賭博』(山下耕作監督)で鶴田浩二の女房役が慎ましく、しかも情愛がこもっていて、とても良かった。