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映画『源氏九郎颯爽記』のシリーズを観ていていつも感じることは、原作の映画化には脚本家も監督も大変苦労したのではないか、ということである。加藤泰監督による第一作、第二作もそうだし、伊藤大輔監督の第三作もそうである。
これは、小説と映画との表現上の違いに原因があるのかもしれない。子供向きの映画ならいざ知らず、大人向きの映画ではウソが通用しにくい。小説なら、筋立てや登場人物の設定に多少無理があっても、文章の説得力で通ってしまう。柴田錬三郎は、ウソを本当に思わせるような説得力が特長で、想像性の豊かなフィクションや伝奇ロマンを書かせたら、戦後の作家の中では指折りの名手である。が、彼の時代小説は、写実性の強い映画によって表現するのは難しいのかもしれない。
それと、加藤泰にしろ、伊藤大輔にしろ、監督自身が柴田錬三郎とは作風が違い、原作の愛読者ではなかったような気もする。柴田錬三郎はロマン主義的な作風で、伊藤大輔と加藤泰はリアリズムの傾向が強い映画作家だからである。しかも、二人の監督は個性が強く、反骨精神も旺盛である。だから、二人とも、原作の方向に沿って内容を補い、その面白さを引き出そうという意欲が湧かなかったのかもしれない。
錦之助は、『源氏九郎颯爽記』第一作の最初から完成した美青年剣士として登場し、最後までその完成形を崩さない。源氏九郎は、心の動揺も感情の起伏もあまり見せないスーパーヒーローである。眠狂四郎は暗いが、九郎は明るくて楽天的である。人間的な苦悩を見せず、どんな苦難にも立ち向かい、神業を演じて克服してしまう。その意味では人間離れした化け物的ヒーローである。
剣は無敵なほど強い。源氏九郎がマスターした「秘剣揚羽蝶」は、知る人ぞ知る剣技であるが、誰も見たことのない秘術である。二刀流で、両手を水平にして二刀の切っ先を直立させる構えである。この取って置きの秘術を繰り出す時には、一瞬にして敵を斬り倒す。第一作で早川要之進(片岡栄二郎)と神前試合をした時、第二作のラストで新海一八郎(岡譲司)と決闘した時がそうだった。
女に対しては、憐れみを感じることはあっても、決して心を許さない。織江に対しても、放駒のお竜に対しても、また志津子に対してもそうである。女に優しく接しても、惚れることはない男、いや、男ではないような気もする。性を超越した存在のようだ。
柴田錬三郎が描いた源氏九郎はそうした超人であり、錦之助がこの主人公を好んでいたかどうかは別として、彼は原作に生真面目なほど忠実な役作りをしている。錦之助という役者は、いつもそうなのだが、原作を熟読し、主人公を納得のゆくまで把握してからでないと演じない。そこが錦之助の偉いところである。
とはいえ、源氏九郎という摩訶不思議な人物は、演じるのが非常に難しかったと思う。錦之助は喜怒哀楽の表現が非常にうまい役者である。その彼が、激しい感情を押さえ、美しい容姿と落ち着いた立居振舞いと明瞭で抑制のきいたセリフ回しで演技し続けている。他の俳優がやったら、人形かロボットのようになってしまうところだろう。
錦之助の源氏九郎は目映いばかりに綺麗である。それにカラッとした明るさと愛嬌がある。第一作『濡れ髪二刀流』の源氏九郎は、若々しく、あどけなさすら感じる。編み笠を取って初めて顔かたちを現した時の錦之助は、可愛らしいほど魅力的だった。
このファーストシーンは忘れもしない。九郎は山道から真っ白な着物姿で現れる。仙道鬼十郎(羅門光三郎)に対し、笠をかぶったまま「おぬしは、卑怯者だな」と言ってから、ちょっとした攻防戦があって、鬼十郎が「名をなのれ!」と言うや、おもむろに笠をとる。「姓は源氏、名は九郎、おぼえてくれとはたのまぬ」と言い、ニコッと笑ったと思う。右手には山百合の花か何かを持っていた。「なにを!」と言って斬りかかる鬼十郎に対し、さっと剣を抜き、すぐに左手で鞘に納める。すでに鬼十郎の右腕を斬っていたのだ。目にも留まらぬ早業だった。
『濡れ髪二刀流』で二度目に源氏九郎が登場するのは、月夜の晩、織江がならず者の人足たちに襲われ、犯されそうになった時である。人足の頭(星十郎)が「見ているのはお月様だけだよ」と言うと、「もう一人ここにいる」と言って源氏九郎が颯爽と現れる。「わしはな、むこうの森に住む古狐だ。」このセリフを言う時の錦之助の表情は、茶目っ気があって実に良い。助けられた織江(田代百合子)が九郎に一目惚れしてしまったのも無理はない。(つづく)
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