錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『瞼の母』(その一)

2006-05-09 05:23:40 | 瞼の母・関の彌太ッペ

 錦之助が番場の忠太郎を演じた『瞼の母』(1962年)は、加藤泰監督の代表作の一つ、そして名作である。これには異論がない。しかし、この映画が独創的な傑作であるどうかということについては、私はずっと疑問を抱いてきた。言うまでもなく、長谷川伸の戯曲『瞼の母』(1930年作)は、これまで舞台で数限りなく上演され、確か五度も映画化されたことのある作品である。(1931年明治座初演。初映画化も同年で、稲垣浩監督・片岡千恵蔵主演の無声映画。名作の誉れ高く、最近弁士つきで上映しているらしいが、私は未見。)つまりこの作品は、長谷川伸が創始した「股旅物」のなかでも「母恋い話」のいわば古典的名作、恐らく五十歳以上の日本人なら誰でも知っている話である。(近年では氷川きよしが「番場の忠太郎」なる演歌を歌っていると聞く。若い人も知っているかもしれない。)閑話休題、『瞼の母』は、幼い頃に生き別れした母親をやくざになった忠太郎が捜し歩き、やっとめぐり合うが、母親は今や江戸の大きな料理屋の女将(おかみ)になっていて、一人娘の将来のために、やくざの忠太郎を追い払うという話である。名場面は、もちろん、忠太郎と母親が対面したときの二人のやりとり…。

 加藤泰監督の『瞼の母』は、浪人時代(35年前)に初めて観て、それから何度も観てきたが、観るたびに私は感動し、ところどころで目頭が熱くなってしまうのだが、その一方で、この映画を手放しに傑作とは呼べないような、割り切れない思いが胸に残って離れなかった。なにかお決まりの人情話を反芻しながら味わっているにすぎないのではないか。涙を流して感動するのも、条件反射的なのではないか。確かにこの映画はよく出来ているが、それは原作の素晴らしさと、この戯曲を上演した演出家と多くの役者たちの努力に負うところが大きいのではないか。悪く言えば、加藤泰はそれに乗っかってウェル・メイドな映画を作っただけなのではないか。そんな疑わしい思いだった。
 一昨日、シネマヴェーラ渋谷でこの映画を再見し、今度こそ、年来の疑いを晴らそうと思った。片岡千恵蔵や林長二郎(長谷川一夫)が忠太郎を演じた昔の映画は観られないので、せめて原作とだけでも比較してみようと思った。そこで、家に帰り、乱雑な書庫から文学全集の一巻長谷川伸(河出書房刊「国民の文学」)を見つけ出し、この戯曲を読んでみた。そして、映画をまたビデオで観た。すると、加藤泰が『瞼の母』をシナリオに書き換え自ら監督してこの映画を作ったとき、どこに映像的・演出的な創意工夫を加えたのかが、面白いことに分かってきた。
 
 まず、セリフは原作に非常に忠実であった。名セリフが多く、さすがに変更することは憚られたのだろう。一部省略したところや、古い言い回しを換えたところもあったが、大詰めの忠太郎(錦之助)と母親おはま(木暮実千代)の会話は99パーセント同じ。この大詰めの場面は、加藤監督得意のワンショットの長回し撮影で、芝居を見せているのと変わりなかったから当然であるといえば当然だった。(ただ、映画では忠太郎が自分の年齢を二十五歳と言うセリフがあった。原作では三十一、二歳になっていて、五歳の時別れて二十数年経ったことにしたある。映画では別れてちょうど二十年にしていたが…。錦之助はこの時二十九歳だった。)
 私がこの映画の中で特に好きな場面、忠太郎が半次郎(松方弘樹)の母親(夏川静江)に紙切れに字を書くのを手伝ってもらうシーンも、セリフは同じだった。映画では叩き斬ったやくざの数が多かったため(原作は一人)、書付の言葉を「一つ、この人間ども…」にして、「人間」を「人間ども」に変えていたが、その後の「叩き斬ったる者は、江州阪田の郡、番場の生まれ忠太郎。」はまったく同じ。ここで初めて、忠太郎の出生地を明らかにすることも、原作にならっていた。ちなみに、江州阪田(ごうしゅうさかた)の郡(こおり)番場(ばんば)とは、現在の滋賀県坂田郡米原町で、中仙道の終わり近く、彦根に向かう分岐道にある小さな宿場町だったという。ここの宿屋に嫁いだおはまが産んだ子が忠太郎だった。亭主(忠太郎の父親、12歳の頃死んだ)は身持ちが悪く、おはまは息子の忠太郎を取られて、離縁され、追い出されたことになっている。そして、江戸に流れ、女中奉公などして苦労を重ね、料理屋の女将になるのだが、その経緯と江戸で知り合った旦那のことは不明である。一人娘お登世の父親がどういう人なのかは原作にも触れられていない。(つづく)




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