錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~東千代之介誕生(その1)

2013-01-03 15:57:50 | 【錦之助伝】~東千代之介
 若和田孝之は、一体どういう経緯で東千代之介という芸名を名乗り、東映から映画デビューすることになったのか。錦之助についてはすでに書いたので、千代之介について書いておこう。(このブログ、千代ちゃんファンの方も読んでくださっているので、詳しめに書きますよ)
 さて、話は終戦後までさかのぼる。

 若和田孝之は入隊してわずか一ヶ月後、千葉で敗戦を知った。最下級の三等兵だったが、幸い、命を危険にさらすこともなく復員した。
 昭和20年10月、人生の再出発を期して、上野の東京音楽学校(現・東京芸術大)邦楽科(唄科)に入学する。長唄の家元杵屋弥三郎の次男である孝之は、本格的に唄と三味線の勉強に取り組もうと考えてのことだった。同じ頃、大好きな踊りの稽古を再び始めた。孝之、満十九歳の時である。
 孝之は中学の頃から花柳徳太郎に師事して花柳流の踊りを習っていたが、師匠の徳太郎が鎌倉に転居していることを知り、再入門した。
 花柳徳太郎(初代 1878~1963)は、花柳流の創始者花柳寿輔(初代)の愛弟子で寿輔の養子でもあったが、家元を寿輔の実子(二代目寿輔)に譲ると、分家し、柳桜会を発足し、花柳流の普及に努めていた。ただし、これは孝之が生まれる前の明治から大正時代のことである。孝之が戦後再入門した時、徳太郎はすでに68歳で、老境にあった。孝之は、幡ヶ谷の家(四谷の家は空襲で焼失)から上野の音楽学校へ通い、横須賀線で鎌倉の徳太郎のもとへも通った。踊りは好きなので苦にならなかった。
 孝之は六代目菊五郎に憧れていた。歌舞伎役者への夢も捨てがたいものがあったが、役者になれなければ踊りの振付師になろうと思い始めた。そこで、意を決し、昭和21年3月、藤間勘十郎(六代目 1900~90)の門を叩いた。藤間勘十郎は、藤間流宗家で、若い頃から六代目菊五郎の踊りの振付をして名声を高めた舞踊家である。
 孝之は花柳流だけでなく藤間流の踊りも学ぼうと思った。むろん、師匠の徳太郎の了解を得てのことだったが、思い詰めたら何が何でも実行に移そうとする熱意と粘り強さが孝之にはあった。孝之は藤間勘十郎に入門を許された。勘十郎は多くの歌舞伎役者に踊りを教えていた。
 錦之助もずっと永代橋の勘十郎の稽古場に通っていたので、孝之はここで錦之助と久しぶりに顔を会わせた。
「なんだ、錦ちゃんじゃないか」
「やあ、先生、元気ですか」
 二人は再会を喜び合った。
 その後、二人は稽古場で度々顔を合わせたが、昭和22年2月のある日、孝之は錦之助を見つけて、こう言った。
「今度暁星でチャリティの催しがあるんで、卒業生のぼくもお手伝いに行くんだよ」
「例の公演ですね。戦災復興の資金を集めるっていう」
「そうそう、そこで『舌切雀』踊るんだよ」
「へえ、お爺さんとお婆さんの二役で踊るあれでしょ。ぜひ観に行きますよ」
「どう、歌舞伎のほうは」
「ずっと修業中ですよ。いつ一人前になれるか分かりませんよ。でも、先生はいいよなあ。上野の学校へ通ってるんだって」
「おい、先生、先生って呼ぶのはよせよ。先輩でいいよ」
  
「好きこそものの上手なれ」で、孝之の踊りの上達はめざましく、いつの間にか藤間の家に泊ったりして、内弟子のようになっていた。藤間勘十郎の若き妻(23歳年下)は後年女優になった藤間紫(1923~2009)である。藤間紫は日本医科大の学長の娘で子供の頃から踊りを仕込まれた天才少女だったが、勘十郎の内弟子から名取になると勘十郎に乞われて21歳の時に結婚、家元夫人におさまった。孝之は三歳年上の藤間紫のお供をして毎月金沢へ踊りの出稽古に行った。そのため、変な噂を立てられたこともあったという。が、どうも孝之は女性が苦手だったようで、これは東千代之介になってからもずっと尾を引いた。女性の前に出ると朴念仁なってしまう癖が抜けなかった。勘十郎もそんな孝之を見込んで、藤間紫のお供をさせたのだろう。
 藤間紫が勘十郎を捨て、16歳年下の三代目猿之助と同棲を始めるのは40歳半ばを過ぎた頃で、猿之助が浜木綿子と離婚した直後である(猿之助と浜の一人息子が香川照之で今度九代目市川中車を襲名した)。藤間紫はいわゆる「あげまん」だった。猿之助が歌舞伎界で一世を風靡するのはそれ以降のことだからだ。勘十郎は紫との離婚を彼女が家出して十数年後にやっと承諾するが、その5年後に90歳で世を去った。
 話を戻そう。
 そのうち孝之は勘十郎の踊りの会の「藤紫会」や専門の邦楽の演奏会にも出演し、舞踊と邦楽の世界では徐々に名前を知られるようになっていった。踊りは振付もし、邦楽は作曲も手がけるようにもなった。


(好評だった「望月」の小沢刑部。昭和22年10月、池之端の都民文化会館の「藤紫会」にて)

 昭和24年3月、孝之は東京音楽学校を卒業するが、この3年あまりで彼の人生の進路はすでに決まっていた。それは、父の跡を継いで長唄の道に進むことではなく、大好きな踊りで身を立てることだった。が、役者になりたいという夢も捨てがたかった。卒業後、ドサ回りの一座に加わろうとしたこともあった。また、小劇団の旗揚げを企てたこともあったが、どちらも挫折した。
 昭和24年8月、父が亡くなり、その後、兄が家元杵屋弥三郎の名を継いだ。(孝之の二歳年上の兄の邦夫は昭和20年2月に出征してから戦後もずっと行方知れずで、戦死したとばかり思っていたが、昭和22年に復員。孝之が踊りの道に進めたのは、兄が生還したからだった。兄が戦死していれば孝之が父の跡を継いだだろし、東千代之介は生まれなかったと言えよう)
 昭和25年、孝之は二十四歳で踊りの師範代になっていた。もともと教え好きなところもあったが、美男の若先生は各地で女性たちの人気者になった。花柳界の女性も多かったが、普通の女性にも懇切丁寧に踊りを教えた。そのうち、弟子があちこちに増えていった。浜松、名古屋、京都、大阪などの稽古場を巡回するようになった。


(映画デビュー後、久しぶりに浜松の稽古場を訪れた東千代之介。ほとんどは花柳界の芸者さんや料亭の女中さんたちで、三十人ほどのお弟子さんが総結集。年配の方も多い。昭和30年3月発行「平凡スタア・グラフ 東千代之介集」掲載)

 当時、孝之は京都の伯母の家に住み、京都を本拠にあちこち飛び回っていた。そんなある日、孝之は伯父で歌舞伎役者の坂東三津右衛門から坂東簑助を紹介された。これが運命の出会いだった。ちょうど関西では武智歌舞伎が脚光を浴び、若手役者の鶴之助、扇雀、莚蔵(雷蔵)、鯉昇、延二郎などが活躍を始めた頃である。坂東簑助は武智歌舞伎の演出も手がける指導者格だった。
 孝之は一大決心をして、昭和26年暮、坂東簑助に入門した。藤間流から今度は坂東流への転向である。孝之は役者になりたいという野望がどうしても捨てられなかった。武智歌舞伎で舞踊劇に出演して、役者へ転身するということに一縷の望みを抱いたのだった。(つづく)




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