錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~東千代之介誕生(その7)

2013-01-14 01:36:04 | 【錦之助伝】~東千代之介
 河野寿一は当時33歳、熱血漢の青年監督だった。彼は大正10年、朝鮮の平安北道で生まれた。現地の商業学校を終えると、本土へ渡り、東京へ上る。早稲田大学専門部経済に入るが、映画作りに青春の夢を抱き、日本大学映画科に再入学。昭和18年、同大卒業後、新興キネマ大泉撮影所に入社。昭和22年、大映から東横映画(のちの東映)京都撮影所へ助監督として移籍し、主に松田定次に師事。昭和28年、32歳でようやく監督に昇進した。その二作目が大友柳太朗主演の『快傑黒頭巾』(脚本小川正 昭和28年11月公開)で、大友版黒頭巾の第一作だった。これはヒットした。
 東映は昭和29年から全プロ(プログラム)自社作品の新作二本立て体制を打ち出し、一本は東映娯楽版と名づけ、5000フィート前後(約45分)の中篇の連続物とした。製作はマキノの右腕とも言われる企画本部次長坪井与(與、あたえ)が担当した。マキノの指示は、子供が見ても面白い、昔の活動写真を思わせる冒険活劇を作れということだった。その手始めが講談や立川文庫でも人気のあった「真田十勇士」の再映画化で、知将真田幸村のもと、猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道らが活躍する時代劇である。そして、マキノが『真田十勇士』の監督に抜擢したのが河野寿一だった。監督第三作目である。「忍術猿飛佐助」「忍術霧隠才蔵」「忍術腕くらべ」の中篇三部作から成り、脚本は村松道平と結束信二。これが河野・結束という東映若手コンビのヒットメーカーが生まれる記念すべき作品となる。出演は、月形龍之介(真田幸村)、大友柳太朗(猿飛佐助)、杉狂児(霧隠才蔵)、岸井明(三好清海入道)、石井一雄(真田大助)、大谷日出夫(穴山小助)、夏川大二郎(由利鎌之助)、ほかに原健策、楠本健二、河部五郎、澤村国太郎、女優陣は喜多川千鶴、千原しのぶ、田代百合子、八汐路恵子。
 東映娯楽版第二弾は『謎の黄金島』三部作(堀雄二主演)で、再び河野寿一が監督し、第三弾が東京撮影所製作の現代劇『学生五人男』三部作(小杉勇監督、波島進主演)だった。さらに第四弾『雪之丞変化』三部作も河野がメガフォンを取ることになった。
『雪之丞変化』は、三上於菟吉の時代小説の傑作で、昭和10年松竹キネマで映画化され大ヒットした。衣笠貞之助監督、伊藤大輔脚本、林長二郎主演だった。この名作を戦後、東映娯楽版で取り上げるというのだ。河野寿一の監督としての力量が問われる本格的時代劇の大作である。しかも、この作品で東映時代劇のスターとして新人東千代之介を売り出さなければならない。これが河野寿一にとって重荷であった。スタッフは、脚本西條照太郎、撮影松井鴻、美術鈴木孝俊、音楽高橋半で、共演は、高千穂ひづる(浪路)、喜多川千鶴(軽業のお初)、薄田研二(土部三斎)、原健策、清川荘司、香川良介、河野秋武、河部五郎、朝雲照代、八汐路恵子といったベテラン揃いで問題なかった。

『雪之丞変化』の初日の撮影が思ったように行かず、河野寿一は自分の手に負えないと思った。そこですぐ製作責任者の坪井与に電話で連絡を取った。坪井は東京本社にいた。河野は千代之介が雪之丞のイメージに合わないこと訴え、
「この作品、ぼくでは無理です。だれかほかのベテランが監督をやったほうがいいと思います」と言った。
 坪井は今さら何を言うかと思ったが、千代之介の演技指導は、演劇と映画の両方の演出に手馴れた野淵昶に応援を頼むことにして、全責任は河野が持つようにと励ました。しかも、電話だけの説得では不十分だと思い、坪井は河野の家へ電報を打った。
「ここが男の大事なところなり。最後までがんばれ」
 河野からも返信があった。
「男だからがんばる」
 これで、河野寿一は『雪之丞変化』の監督を続けることになった。





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