そんなことなど知らない千代之介は、撮影中止の二日間、京都撮影所へ行って俳優部屋で悠然と構えていた。また声が掛かれば、衣裳に着替えて出演すれば良い。製作部の辻野力弥が心配して千代之介の様子を見に来た。
「ぼくはやるだけのことはやっています。ダメだったら降りても別に構いませんから」と千代之介は言った。辻野はそんな千代之介の毅然とした態度を見て、これは大物かもしれないと思った。
二日後、撮影は再開された。野淵昶がやって来て、千代之介の演出をするようになった。それで意思疎通がうまく取れるようになった。が、野淵の言うことはよく分かり、自分でもそうやりたいと思うのだが、実際に演じてみると思うようにできないことばかりだった。千代之介は毎日、台本首っ引きで稽古に励んだ。
現場では共演者の原健策がお手本を見せてくれ、手取り足取りの実地指導をしてくれた。もうつきっきりのコーチであった。原健策はその後も千代之介が難役を演じる時は、自らコーチを買って出て、熱心に指導した。後年、オールスター映画の『赤穂浪士』で千代之介が浅野内匠頭を見事に演じたその蔭には、吉良上野之介役の月形龍之介と片岡源吾衛門役の原健策の指導が大きかった。むろん、千代之介がそれに応えられるだけの素質があってのことだが、千代之介の人柄の良さと謙虚さも先輩に好かれる要因だった。
高千穂ひづるもコチコチになっている千代之介をリラックスさせようと暖かい言葉をかけてくれた。目に涙がにじむほどありがたかった。
ある日、監督の河野寿一が、撮影終了後、千代之介を飲みに誘った。二人は心を開いて話した。良い映画を作ろうという思いは同じだった。河野寿一は千代之介が一所懸命にやっていることは分かっていた。河野寿一は、二十貫の巨体で声も大きく威圧感があったが、気は優しい男だった。二人とも酒豪である。二人は浴びるほど酒を飲んで、互いの健闘を誓い合った。
『雪之丞変化』第一部「復讐の恋」と第二部「復讐の舞」が撮り終わり、第三部「復讐の劍」に取り掛かろうとしていた頃のことである。三月の下旬であった。無我夢中で一ヶ月近く撮影を続け、ようやく千代之介も映画の演技のイロハが分かりかけて、NGが少なくなっていた。俳優課の担当者が千代之介の俳優部屋へやって来て、次の映画の台本を手渡した。表紙のタイトルを見ると、『笛吹童子』と書いてあった。
「やれやれ、おれもクビにならないで、次回作に出られるんだな」と千代之介はほっとして、台本の最初のページをめくった。
配役を見て、びっくり仰天した。
「あっ! 錦ちゃんじゃないか!」
自分の隣りに、中村錦之助の名前が書いてある。萩丸と菊丸、どうやら兄弟らしい。まさか自分が次の映画で錦ちゃんと兄弟役で共演するとは思いもかけないことだった。千代之介は、台本を持ってすぐに山崎真一郎のいる所長室に駆け込んだ。
「なんだ、君たちは知り合いだったんだ」と山崎は目をまん丸くして言った。
「錦ちゃん、もうここへ来ましたか」と千代之介は尋ねた。
「この間、来たけど、またヅラ合わせに来るよ」
「今度来たら、ぼくの部屋へ寄るように行ってください。それから、俳優部屋もいっしょにしてくれるとありがたいのですが」
「ああ、いいよ」と山崎はうけ合った。
この頃、京都撮影所の俳優部屋は木造二階建てで、部屋数が少なく、千恵蔵、右太衛門、月形が個室で、ほかの俳優たちは相部屋だった。男優となると十人くらいが八畳から十二畳の部屋をいっしょに使っていた。千代之介も十人部屋だった。
それから数日後の昼休みのことだった。
午前中の撮影がスムーズに終って、千代之介が俳優部屋で昼食を食べたあとくつろいでいると、「やあ」という声が肩口で聞こえた。振り返って見ると錦之助だった。満面に笑みを浮かべている。
「東千代之介って誰かと思ったら、先輩じゃないの。もうびっくりしちゃった」
「相変わらず元気そうじゃないか。こっちは毎日しごかれてボロボロだよ。まっ、坐れよ」
錦之助は千代之介の前にあぐらをかいて坐った。
「いま雪之丞やってるんだって。さっきポスター見たよ」
「どうだい、ぼくの女形は。錦ちゃんには負けるかな」
「いや、なかなかのもんですよ」
「そうか」
「それより『笛吹童子』で兄弟の役やるっていうんだから、驚いたのなんの。こんなことってあるんだね」
「台本の配役見て、ぼくも目を疑ったよ」
「東映の役者さん、誰も知らないからちょっと心配だったんだけど、先輩といっしょだったらこんな心強いことないね」
「それはこっちの言うセリフだよ。錦ちゃんといっしょにできるなら勇気百倍だよ」
「二人でがんばろうよ」
錦之助は手を差し出した。千代之介は錦之助と握手すると、
「おう、がんばろう。でも良かったよ、これからも映画続けるかどうか、どうしようかと思ってたんだ」
「えっ、そうだったんだ」
二人は、握手した手をもう一度固く握り合った。
こうして、東映に時代劇黄金時代を招きこみ、またたく間に東映が大躍進する原動力となった「錦・千代コンビ」が誕生したのだった。
「ぼくはやるだけのことはやっています。ダメだったら降りても別に構いませんから」と千代之介は言った。辻野はそんな千代之介の毅然とした態度を見て、これは大物かもしれないと思った。
二日後、撮影は再開された。野淵昶がやって来て、千代之介の演出をするようになった。それで意思疎通がうまく取れるようになった。が、野淵の言うことはよく分かり、自分でもそうやりたいと思うのだが、実際に演じてみると思うようにできないことばかりだった。千代之介は毎日、台本首っ引きで稽古に励んだ。
現場では共演者の原健策がお手本を見せてくれ、手取り足取りの実地指導をしてくれた。もうつきっきりのコーチであった。原健策はその後も千代之介が難役を演じる時は、自らコーチを買って出て、熱心に指導した。後年、オールスター映画の『赤穂浪士』で千代之介が浅野内匠頭を見事に演じたその蔭には、吉良上野之介役の月形龍之介と片岡源吾衛門役の原健策の指導が大きかった。むろん、千代之介がそれに応えられるだけの素質があってのことだが、千代之介の人柄の良さと謙虚さも先輩に好かれる要因だった。
高千穂ひづるもコチコチになっている千代之介をリラックスさせようと暖かい言葉をかけてくれた。目に涙がにじむほどありがたかった。
ある日、監督の河野寿一が、撮影終了後、千代之介を飲みに誘った。二人は心を開いて話した。良い映画を作ろうという思いは同じだった。河野寿一は千代之介が一所懸命にやっていることは分かっていた。河野寿一は、二十貫の巨体で声も大きく威圧感があったが、気は優しい男だった。二人とも酒豪である。二人は浴びるほど酒を飲んで、互いの健闘を誓い合った。
『雪之丞変化』第一部「復讐の恋」と第二部「復讐の舞」が撮り終わり、第三部「復讐の劍」に取り掛かろうとしていた頃のことである。三月の下旬であった。無我夢中で一ヶ月近く撮影を続け、ようやく千代之介も映画の演技のイロハが分かりかけて、NGが少なくなっていた。俳優課の担当者が千代之介の俳優部屋へやって来て、次の映画の台本を手渡した。表紙のタイトルを見ると、『笛吹童子』と書いてあった。
「やれやれ、おれもクビにならないで、次回作に出られるんだな」と千代之介はほっとして、台本の最初のページをめくった。
配役を見て、びっくり仰天した。
「あっ! 錦ちゃんじゃないか!」
自分の隣りに、中村錦之助の名前が書いてある。萩丸と菊丸、どうやら兄弟らしい。まさか自分が次の映画で錦ちゃんと兄弟役で共演するとは思いもかけないことだった。千代之介は、台本を持ってすぐに山崎真一郎のいる所長室に駆け込んだ。
「なんだ、君たちは知り合いだったんだ」と山崎は目をまん丸くして言った。
「錦ちゃん、もうここへ来ましたか」と千代之介は尋ねた。
「この間、来たけど、またヅラ合わせに来るよ」
「今度来たら、ぼくの部屋へ寄るように行ってください。それから、俳優部屋もいっしょにしてくれるとありがたいのですが」
「ああ、いいよ」と山崎はうけ合った。
この頃、京都撮影所の俳優部屋は木造二階建てで、部屋数が少なく、千恵蔵、右太衛門、月形が個室で、ほかの俳優たちは相部屋だった。男優となると十人くらいが八畳から十二畳の部屋をいっしょに使っていた。千代之介も十人部屋だった。
それから数日後の昼休みのことだった。
午前中の撮影がスムーズに終って、千代之介が俳優部屋で昼食を食べたあとくつろいでいると、「やあ」という声が肩口で聞こえた。振り返って見ると錦之助だった。満面に笑みを浮かべている。
「東千代之介って誰かと思ったら、先輩じゃないの。もうびっくりしちゃった」
「相変わらず元気そうじゃないか。こっちは毎日しごかれてボロボロだよ。まっ、坐れよ」
錦之助は千代之介の前にあぐらをかいて坐った。
「いま雪之丞やってるんだって。さっきポスター見たよ」
「どうだい、ぼくの女形は。錦ちゃんには負けるかな」
「いや、なかなかのもんですよ」
「そうか」
「それより『笛吹童子』で兄弟の役やるっていうんだから、驚いたのなんの。こんなことってあるんだね」
「台本の配役見て、ぼくも目を疑ったよ」
「東映の役者さん、誰も知らないからちょっと心配だったんだけど、先輩といっしょだったらこんな心強いことないね」
「それはこっちの言うセリフだよ。錦ちゃんといっしょにできるなら勇気百倍だよ」
「二人でがんばろうよ」
錦之助は手を差し出した。千代之介は錦之助と握手すると、
「おう、がんばろう。でも良かったよ、これからも映画続けるかどうか、どうしようかと思ってたんだ」
「えっ、そうだったんだ」
二人は、握手した手をもう一度固く握り合った。
こうして、東映に時代劇黄金時代を招きこみ、またたく間に東映が大躍進する原動力となった「錦・千代コンビ」が誕生したのだった。
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