錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~生い立ち(その4)

2012-08-13 10:11:29 | 【錦之助伝】~誕生から少年期
 錦之助の幼年時代に話を戻そう。
 当時、父時蔵の麻布三河台の家は、子沢山の上、弟子や使用人を抱えた一大ファミリーであった。母ひなは、歌舞伎役者である夫の職業柄、どうしても家庭に閉じこもって子育てに専念することができなかったので、子供のそれぞれに乳母をつけて面倒を見てもらっていた。錦之助を含め六人の子供たち専用に六人の乳母が付いたのだからすごいことだ。乳母と言ってもおっぱいを飲ませていたのではなく、女中さんも兼ねて家の仕事をしながら、担当する子供の面倒を見ていたのであろう。
 錦之助の乳母は、よしと言い、「まだ結婚前の純朴な娘だった」という。自伝「ただひとすじに」にはこう書いている。

――乳離れして母の胸元を去る頃、生れて一年目によしが私のうばとして我が家に仕えたのです。私はよしを母のように慕い、よしもまた、献身的に私に溢れる愛情を惜みなくそそいでくれました。

 錦之助は生れて一年目で乳離れしたと語っているが、父時蔵の古くからの弟子で錦之助とともに東映に入って相談役も務めた中村時十郎(のちに時之介)の話では、「錦之助さんは4歳の頃までお母さんの乳首を離さなかった」という。これは「平凡スタアグラフ 中村錦之助集」(昭和31年9月発行)に載っている座談会の記事「名題さんが語る錦ちゃんの歌舞伎時代 播磨家一家の暴れん坊」での発言である。その時十郎の発言を受けて、片岡愛之助が「お母様の乳首をこしらえて掛けていたって」とまで言っている。4歳というのは数え年であろう。満で言えば2歳すぎである。
 錦之助は甘えん坊で乳離れも悪かった。母親にくっついて離れない子を英語ではMotherʼs apron strings(お母さんのエプロンのひも)と言うが、錦之助が物心つくかつかない頃は、まさにこれで、母親べったりだったようだ。

――小さい時は割に臆病で、泣き虫でした。見なれないお客さまでも見えると、私の袖にかくれて出て来ないんです。

 これは自伝「ただひとすじに」で錦之助が紹介している母ひなの言葉である。

「三つ子の魂百まで」と言うが、幼年時代に形成された性質はずっと変らない。マザコンとまで言えるほどの錦之助の母親思いは、大人になってもずっと続いたが、それは幼年時代に満たされなかった母への愛着の延長なのかもしれない。臆病で、泣き虫で、人見知りといった性質も、小さい時だけでなく、終生変らなかったようだ。
 また、錦之助ぐらい乳母日傘(おんばひがさ)で育った人も珍しい。乳母よしにものすごく愛されて成長したことは錦之助自身が語っている通りである。錦之助はこんなことも書いている。
 
――よしは私が四男坊として末席にいるため、自然、身にまとうものも兄たちのおさがりが多く、兄たちが新調の学生服にはしゃぐ時、私が兄たちのおさがりを着ることに独りもんもんとして、母の非を腹に据えかねていましたが、遂に母に抗議を申込み、その不公平を責め、母を困惑させたそうです。

 これは錦之助が小学校へ上る頃の話なのだろう。よしという乳母は、勝気で負けず嫌いな女性だった。錦之助が兄弟喧嘩をして錦之助の方が悪くないと知ると、よしは相手の乳母のところへ談判に行き、自分も喧嘩をして帰ってくるといった有様で、母のひなも乳母同士の喧嘩には手を焼いたことだろう。


錦之助(5歳)

 錦之助の幼年時代、この家には、父時蔵の弟子や男の使用人も何人かいて、さらにみんなを差配する婆やさんもいた。この婆やさんは、金沢さよ、と言って、ずっと前から時蔵家に居て、長年にわたって時蔵家に仕えた。後年錦之助が映画スターになって京都東山に家を買った時、東京から移り住んで、本当の祖母のように錦之助の世話をしたという人である。
 時蔵の家が総勢二十名を越える大所帯だったのは、昭和10年前後から数年間のことである。使用人たちはみんな住み込みで賄い付きだったから給金など払わず盆暮の小遣い程度で済ませていたと思うが、それにしても食費だけでも大変だったであろう。それに、よほど家が広くなければ、出来ない相談である。
 時蔵はこの頃40歳代の壮年期で、歌舞伎役者としても評価を確立し、収入も良かったにちがいない。麻布三河台に大きな家を新築し、さらに大磯に別荘まで持つほどであった。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿