日本人固有の土着的世界観をさぐる日本文化思想史概論 第15回
4)第2の転換期:13世紀鎌倉幕府の時代 鎌倉仏教と王朝貴族文化の最後 (3)
鎌倉幕府に実権を奪われた京都の貴族階級は政治的に巻き返しを図ろうとした努力は既にその力がないことが明白になり、幕府に取り入って自身の宮廷内の昇進を図る人もいたが(藤原兼実や定家ら)、依然文化の担い手は貴族階級にあった。1201年後鳥羽天皇の命で「和歌所」が作られ、藤原定家らが「新古今集」の編集にあたった。定家は父俊成の「古来風体抄」をふまえて、歌合・題詠・歌論の定式化をすすめ、文学的価値の意識化に努めた。「幽玄」、「有心」などという言葉で表現される美的価値の主張と、「本歌取り」にみる歌論の伝統主義という工夫である。1205年「新古今和歌集」が六人の選者によって編纂され1978首の和歌をあつめた。新古今の特徴は「詠み人知らず」の歌がなく収録されたのは同時代の専門家歌人の歌ばかりである。歌の制度化と専門家の時代となった。また女性歌人が1/3を占めた。古典を踏まえて、掛け言葉(今でいう駄洒落)を駆使して、複雑な内容を凝縮するのが新古今流であり定家流であった。現場を見ないで作るのが普通であった。浄土教は風俗にとりれられているが、法然や親鸞の思想には程遠い。貴族階級は絶対者の浄土教をいまだに理解していなかったようだ。定家とならんで多く採用されている西行の歌は殆どが月並みの主題により、旅に出ても自然を見て詠んだものではない。旅で重要なのは「歌枕」である。歌枕を詠むためにそこにいったに過ぎない。鎌倉三代将軍実朝の歌は「ますらおぶり」ともてはやされことが多いが、武家気質は何も感じられない。北面の武士西行と同様に貴族文化への全面降伏を見るだけである。
(つづく)
4)第2の転換期:13世紀鎌倉幕府の時代 鎌倉仏教と王朝貴族文化の最後 (3)
鎌倉幕府に実権を奪われた京都の貴族階級は政治的に巻き返しを図ろうとした努力は既にその力がないことが明白になり、幕府に取り入って自身の宮廷内の昇進を図る人もいたが(藤原兼実や定家ら)、依然文化の担い手は貴族階級にあった。1201年後鳥羽天皇の命で「和歌所」が作られ、藤原定家らが「新古今集」の編集にあたった。定家は父俊成の「古来風体抄」をふまえて、歌合・題詠・歌論の定式化をすすめ、文学的価値の意識化に努めた。「幽玄」、「有心」などという言葉で表現される美的価値の主張と、「本歌取り」にみる歌論の伝統主義という工夫である。1205年「新古今和歌集」が六人の選者によって編纂され1978首の和歌をあつめた。新古今の特徴は「詠み人知らず」の歌がなく収録されたのは同時代の専門家歌人の歌ばかりである。歌の制度化と専門家の時代となった。また女性歌人が1/3を占めた。古典を踏まえて、掛け言葉(今でいう駄洒落)を駆使して、複雑な内容を凝縮するのが新古今流であり定家流であった。現場を見ないで作るのが普通であった。浄土教は風俗にとりれられているが、法然や親鸞の思想には程遠い。貴族階級は絶対者の浄土教をいまだに理解していなかったようだ。定家とならんで多く採用されている西行の歌は殆どが月並みの主題により、旅に出ても自然を見て詠んだものではない。旅で重要なのは「歌枕」である。歌枕を詠むためにそこにいったに過ぎない。鎌倉三代将軍実朝の歌は「ますらおぶり」ともてはやされことが多いが、武家気質は何も感じられない。北面の武士西行と同様に貴族文化への全面降伏を見るだけである。
(つづく)
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