ブログ 「ごまめの歯軋り」

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死と愛と孤独の詩人 「原民喜」

2020年01月03日 | 書評
民喜と貞恵

繊細な精神は過酷な運命を生きた 死と愛と孤独の文学  第1回

序(1)

留学先のフランスで原の自死の報を受け、遺書を読んで「あなたの死はなんてきれいなんだろう、あなたの生はなんてきれいなんだろう」と日記に書いた遠藤周作、36年後「死について考える」という著作のなかで次のように書いている。「原さんは私だけでなく、周りの多くの人に強烈な痕跡を残して行きました。あの人の何百倍も強烈なのがイエスかもしれない」と原の生き方とイエスの生涯を重ねて考えている。人々の悲しみ、苦痛、惨めさを引き受け、寄り添おうとしたそれが遠藤が信じたイエスの像である。この人はこの世では無力であった。奇蹟など行わなかった。自分を裏切った者に恨みの言葉は発しなかった。彼は悲しみの人で自分たちの救いだけを祈ってくれた。イエスのその惨めな死こそが弟子たちの胸に突き刺さり、彼らの人生を変えていくのだと遠藤は書いている。遠藤が原をイエスに重ね、轢死という悲惨な自死を「なんてきれいなんだ」という理由が見えて来る。友人の庄司総一は、原は自分を痛めつけ不幸に落とし込んだ者への抗議は言わなかったという。反抗の精神を持たなかった原の文学の美しさがある。原は小さい声で死者のための歌を歌った。これを庄司は「無償の愛」と呼んだ。被爆体験を持ちながら社会に抗議しないで生を終えた作家に物足りなさを覚える人は多い。自分への反省もなくしゃにむに前に進む社会にあって、悲しみの中に留まり続け嘆きを手放さなかった原にかえって強靭さを覚えると筆者は言う。切り替えが早いだけで悲しみと嘆きを置き去りにする人は精神に連続性をなくし、空洞を生む。個人の発する弱く小さな声が意外に遠くまで届くことがある。それが文学の力かも知れない。原民喜の生き方は、どこか太宰治に似ている気がする。

(つづく)





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