ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 天野郁夫著 「大学の誕生」 中公新書

2011年05月31日 | 書評
帝国時代の高等教育システムの歴史 第7回

1)帝国大学以前 (3)

 帝国大学が生まれる前の時代は、文部省の「東京大学」以外にも、学制とは関係なしに各省庁は官吏養成を目的として、外国人教師が外国語で教授する専門学校を独自に立ち上げた。フランスの「グランド・ゼコール」は長い伝統をもつ高等専門教育の系統であるが、官製日本型グランド・ゼコール群はやがて帝国大学に統合され、帝国大学自体が専門官僚養成学校になってゆく点で大きく異なっている。官製日本型グランド・ゼコール群には工部省の工部大学校(明治10年)、司法省の法学校、開拓使の札幌農学校、内務省の駒場農学校の四校があった。国が官吏を養成する学校であったので、卒業後は長期の奉職義務がある。今の自治医大のようなものである。外国人教師による官吏促成栽培だけでは植民地と変わらないので、独立国日本としては将来は自前の教師を持たなければならない。そこで欧米諸国への留学生選抜と派遣とそれによる教員養成が行なわれた。明治6年段階で文部省管轄派遣留学生は198名、各省派遣留学生は61名を数えた。選抜された官費留学生制度は明治8年に始まり、明治12年以降は全員が東京大学卒業生で10名程度が派遣された。明治12年に旧来の「学制」は廃止され、代わって「教育令」が公布された。この教育令は「自由教育令」と呼ばれ、第1条「公立私立の別なく文部卿が監督す」、第2条「いずれの学校を問わず、各人皆これを設置することが出来る」という。当時の文部卿田中不二麻呂は岩倉使節団に同行し欧米の学校を視察して、アメリカの自由主義的な教育制度の興味を持ち文部省にアメリカ人の教育顧問を招聘した。この教育令はアメリカの「リベラルアーツ(学芸)」教育(カレッジ)の思想を反映していたが、翌年には廃止され「改正教育令」に取って代られた。
(つづく)


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