ブログ 「ごまめの歯軋り」

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石母田正 著 「日本の古代国家」 岩波文庫(2017年)

2019年05月08日 | 書評
五月晴れ

推古朝から大化の改新を経て律令国家の成立に至る過程を論じた7世紀日本古代国家論  第7回

第1章 「国家成立史における国際的契機」 (第4講)

2) 推古朝 権力集中の諸類型:(その2)

倭国(日本)での推古朝の政体をみてゆこう。聖徳大使の「万機総摂」制は権力集中という意味で朝鮮三国の場合と同じである。600年の第1次遣隋使派遣以降、603年「冠位12階」の制定、604年「17条の憲法」の制定、620年「天皇記」、「国記」の編纂をおこなった。600年の新羅出兵はほとんど成果は無く、その後の新羅出兵計画は挫折している。聖徳太子の対外派兵は極めて弱体で見るべき成果は何もなかった。内政改革は「斑鳩宮」の建設後に矢継ぎ早におこなわれた。大臣蘇我馬子を含む支配階級を代表して聖徳太子の外交は行われた。国家という機構を介して支配階級の権力集中が行われるのは律令制が確立した天平期以降のことであり、推古朝では支配階級の力量は聖徳太子個人の人格的力量に帰せられる。推古天皇ー聖徳太子ー蘇我馬子という権力集中の方式は、新羅型の真徳女王ー金春秋ー金ゆ信の関係に類似している。中国王朝との生死をかけた戦争をおこなう朝鮮三国の場合と、推古朝の干渉戦争は朝鮮半島に拠点を持たず現実性を欠いた「大国意識」に過ぎなかったので、外交的には見るべきものは無く、主として制度的・文化的側面に限られた。高句麗・百済と同じく、推古朝の支配層にも新羅の「和白」(貴族的合議制)のような土台が欠けていた。聖徳太子と馬子の二人の合議制は太子亡き後急速に力を失い、馬子は高句麗型の専制的権力集中を求めて中大兄皇子との対立を深めた。太子の業績は「礼」、「冠位」という天皇の権威を対外的に示す制度である。「天皇」号の成立が推古朝であったという説があるが、推古朝の「大王」から「天皇」号の転換は制度的にまだ不安定で、高句麗の国王が「大王」を称していたことへの対抗措置であり、対外的に日本国を代表し、統治権を総攬する主権者としての「天皇」号が確立したのは乗御原令以降とみられる。大化改新直後の年頭に高句麗と百済の使節に「御宇日本天皇」を名乗った。第1回遣隋使の「上表」に「倭王あり、名はアメタシリヒコ」と名乗ったが、随帝は「義理なし」と叱責し、名前を改めさせたという。天と王権との関連のさせ方は中国の思想である。第2回の遣隋使の国書では「日いずる国の天子、書を日没するところの天子にいたす」というと、隋の煬帝は「無礼者」として国書を破棄した。第3回遣隋使の国書「東の天皇、敬しみて西の皇帝にまうす」といった。中国では北極星を表す天皇という皇帝の称号はない。そこには中国王朝の世界帝国的秩序の内部に、自ら「大国」としての位置を占めようとする意図が見られる。また中国王朝に自国の歴史を説明するための公式文書として「国史編纂」が行われた。推古朝の「天皇記」、「国記」がそれである。百済や新羅でも推古朝以前に史書の編纂が行われ、百済本記、新羅の国史が中国に提出されている。易姓革命の思想を欠く日本では系譜の編纂によってのみ王権の世襲制の正当性を主張しようとした。記紀の原型の成立史としての推古朝の意義はこうした国際的契機なしには語れない。推古朝において日本支配層は歴史上はじめて自覚的に外国の文物制度で理論武装し始めた。それも百済をルートとする輸入、百済滅亡後の大量の「帰化人」の流入にあったとみられる。帰化人の頂点に立ったのが蘇我入鹿であった。異質の国家機構の建設がはじめて支配階級の課題として提案された。

(つづく)


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