ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 小田部雄次著 「皇 族」 中公新書

2011年04月16日 | 書評
明治以来の皇族の歴史を知ろう 第5回

第1部 明治・大正時代 欽定憲法と皇室典範 立憲君主制時代の皇室 (1)

 戦前には皇族として15宮家があったことを知る人も少なくなっている。当然ながら私も知らなかった。伏見宮、閑院宮、山階宮、北白川宮、梨本宮、久邇宮、賀陽宮、東伏見宮、竹田宮、朝香宮、東久邇宮、桂宮、有栖川宮、華頂宮、小松宮の15家であった。このなかで桂宮と有栖川宮の2家を除いては、13家の始祖は室町南北朝時代に遡る伏見家の流れに属していた。戦後皇室は昭和皇后と皇太后とその実子(明人親王、正仁親王、和子、厚子、貴子内親王)と、昭和天皇の実弟である秩父宮、高松宮、三笠宮の三宮家を残して、伏見宮から東久邇宮の11宮家の皇籍を離脱させた。この伏見宮系皇族は明治維新以来の近代皇族を考える上で重要な存在であった。そもそも皇族とは時代により法令により定義や構成が異なってきた。現在皇族とは「平成天皇」の家族22名を意味する。女子配偶者を皇族とみなすかどうかは近代とそれ以前を別つ大きな指標であった。古代大宝令(701年)が制定される以前には天皇の後胤という漠然とした範囲で把握されていた。大宝令が定まった奈良時代以降明治憲法までの時代(つまり近代以前)は「継嗣令」で皇親の範囲を「5世未満」と明確に規定している。1世の皇子を親王とし、皇孫、皇曾孫、皇玄孫を王とした。賜姓降下、親王宣下、臣籍降下などで、皇族が過剰にならないよう、親王不足にならないよう調整をしてきた。鎌倉時代以降、宮号を賜って代々世襲する「世襲親王家」が誕生した。室町時代に伏見宮が生まれ、安土桃山時代に桂宮、江戸初期に有栖川宮、江戸中期に閑院宮がそれぞれ創設されて四親王家となった。徳川時代の御三家(水戸、尾張、紀伊)とか吉宗以降の新御三卿(一橋、田安、清水)を思い浮かべれば事情はわかる。
(つづく)


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