ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文藝散歩 森鴎外著 「渋江抽斎」 中公文庫

2011年02月28日 | 書評
伝記文学の傑作 森鴎外晩年の淡々とした筆はこび 第17回

抽斎没後、五百を中心とした渋江氏の物語(6)

*抽斎没後9年は慶応3年(1866年)である。
川口で医師をしていた矢嶋優善33歳が江戸に戻って五百の家に同居した。
*抽斎没後10年は慶応4年、明治元年(1867年)である。
慶喜が上野寛永寺に謹慎したとき、弘前藩定府の幾組かが江戸を引き払って弘前に移住した。その中に渋江氏もあった。亀沢町の屋敷を売り払い、奉公人に暇を出し、居候や寄生人の行き先を差配して、官軍が江戸に入った4月20日渋江氏は江戸を出た。このときの同行者には、戸主成善12歳、母五百53歳、陸22歳、水木16歳、専六15歳、矢嶋優善34歳の6人と若党二人であった。渋江氏に同行したのは矢川文一郎28歳と180石表医師浅越一家である。船で小山に着き、そこからは徒歩で奥羽を目指した。その道行きは大変面白く記されているが割愛して、弘前に入って古着屋に下宿し藩から1人1日金一分を受けた。成善は毎日登城した。五百は専六が師となすべき医師として小野元秀を決めた。ところが専六は医師になるより、兵術を学ぶ事を望み、柏原礫蔵らと山澄吉蔵のもとで洋算と簿記を習った。小野富穀、矢嶋周禎らも弘前に着いた。森枳園は主家の阿部氏に従い東京から福山に移った。
(つづく)


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