ブログ 「ごまめの歯軋り」

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前田耕作著 「玄奘三蔵、シルクロードを行く」 岩波新書

2011年02月28日 | 書評
仏教の原義を求めて、長安からガンダーラへの旅 第8回

1) 西域の国々
 いよいよここからは唐の支配の及ばない異国の地「西域」である。本書は玄奘法師の足跡を辿るという趣旨で、地理や文化を語る場面が多いのだが、私は玄奘法師が仏教経典の何を学んだのかを中心にまとめてゆきたい。山や砂漠の冒険や探検の話はオミットする。627年李世民が即位した年、貞観元年8月の朝笈を背に長安を出発した。西域へ出ることは唐朝は禁止していたので、玄奘は秘密裏に出発した。泰州から蘭州へ、そして涼州へ向かった。当時622年唐朝は河西地方に五州(涼、甘、粛、瓜、沙州)を置いた。涼州には都督府がおかれ唐の西域経営の拠点であり、涼州は東西貿易の拠点でもあり仏教文化も盛んな土地であった。玄奘は粛州から瓜州に至り、628年元旦玉門関を出た。玉門関を出てハミ(伊吾)にいたる。後漢の時匈奴を追い払って西域経営の拠点としたが、隋の時には影響力はなくなり西方ソグドの商人が殖民していたという。トルファン盆地は車師前国の故知であるが、高昌国では今やソグド人がもたらしたゾロアスター教と西域の僧がもたらした仏教とが崇拝されていた。時の王麹文泰は玄奘を迎え仏教の機運を高めようと「仏説仁王般若経」の講義を希望し、玄奘のこれからの旅の安全を保障する西突厥の葉護可汗(ヤブグカガン)への献上品や絹織物など金に換わるものを玄奘に与えた。玄奘らは西へ西へと旅を進め、阿嘗尼国(カラシャール)の王城に着いた。この国の言葉は「トカラ語(焉耆・亀茲語)」夜呼ばれインド・ヨーロッパ語族である。文字はインドのブラーフミ文字が使用されていた。玄奘は言語に対する鋭い感覚を有し、言語の少しの違いをも指摘できるほどであった。産物・衣服、伽藍の数、僧徒の数などを各国について記している。阿嘗尼国の伽藍は十数箇所、僧徒は三千人で小乗経の「説一切有部」を学習している。インドの原文について玩味している。更に西へ行くと屈支国(クチ、亀茲)に着く。原典から漢文に翻訳した鳩摩羅汁の故国がここ亀茲である。後漢の班超が亀茲を下した時代には「延城」と呼ばれていた。当時の王蘇伐畳(スヴェルテ)は屈支族で、高僧モークシャグブタを伴って玄奘を迎えた。玄奘は高昌王からの親書と綾絹を献上した。亀茲国に仏教が栄えたのは3世紀頃からであり、東西いずれの国にも仏典を伝えた。亀茲の言語は焉耆と同じトカラ語に属していた。鳩摩羅汁は東晋の4世紀中頃インドから亀茲国にやってきた一族の子で9歳でインドのガンダーラにゆき小乗経典を授けられた。西域諸国を旅して大乗仏教の経綸を極めたといわれる。鳩摩羅汁は406年東晋の都長安に迎えられ、「法華経」、「維摩経」を訳した。亀茲国では伽藍が百余箇所、僧徒は五千人と記している。クムトラ石窟には57の仏塔窟と「画家洞」の絵が残されており、またアーシチャリア伽藍を訪れすばらしい壁画と去勢伝説を玄奘は記録している。この伝説はインドの叙事詩「マハーバーラタ」のモチーフを伝えているようだ。クチャ文化が西に向かって開かれていたことを示す。親書を携えて大ききな国に着くたびに、出発時には馬とラクダにたくさんの物資を頂くことになる。その荷物の噂を聞きつけた盗賊が玄奘の一行に襲い掛かるのが、「西遊記」の話の原点になったのであろう。次の国までの人夫や警備をついたので玄奘は山賊には襲われなかったようである。次は跋禄迦国(バールカー、姑墨)をめざした。
(つづく)


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