ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 坂井孝一著 「承久の乱」 中公新書2018年12月

2019年11月27日 | 書評
カメリア

後鳥羽上皇の反乱は二日で鎮圧され、公武の力関係を変え中世社会の構造を決定した  第10回

第3章 鎌倉幕府と後鳥羽の葛藤 (その2)

1219年8月4日後鳥羽は臨時の除目を行い、北面の武士で院近臣であった藤原秀康に、北陸道・山陽道の国務を担当させた。これは国守を調整して大内裏の造営に当たらせる人事であったという。院近臣で按察使藤原光親と組んで秀康は大内裏造営に当たった。後鳥羽は次々と除目を行い大内裏造営の人事異動を行った。健康が回復すると10月10日最勝四天王寺で名所和歌会を開催した。ここで武家にはない文化面での帝王ぶりを見せつけたかったのであろう。建築を忌む期間が過ぎたので12月18日内裏造営に本格的に取り組むことになった。1220年1月22日藤原公頼を行事参議に、23日頼資を行事弁に、そして藤原光俊を加えて造内裏行事所を発足させた。造内裏という国家事業には莫大な国費が必要であり、当然課税強化策がとられた。造内裏役という一国平均役を荘園・公領にも課税する方式がとられた。朝廷の支配が及ぶ国は畿内と西国が中心で、越後と加賀国は北條家の直轄地であり造内裏役は拒否されたのをはじめとして、尾張より東北は幕府支配になるので徴収はできなかった。造内裏役の徴収は、国衙が田の面積に従って賦課割り当て書である切符を作成し、公領の場合は国司が、荘園の場合は領家を通じて徴収した。摂津国のように田の数が減少しているので賦課通りには納入できないと抵抗するところが多かった。地頭が領家の下知に従わないという場面もあった。さらに朝廷が認めた免除基準である「四箇神領」、「三代御起請地」、「保元の免除証文」などを乱発したつけが回って、国司、領家。地頭の別なく造内裏役を拒否する抵抗運動が盛んとなった。こうして1220年12月公頼の辞任、造内裏行事所の解散となり、これは完成したことを意味するのかというと、むしろ工事が中断・挫折した気配が濃厚である。近い過去の例では造内裏造営の工期は、後白河天皇の時は7か月半、閑院内裏の場合7か月であった。ところが後鳥羽の場合1219年10月に行事所が開設され、立柱棟上げは1220年10月であり院宣が下されてから1年以上が経過している。そして棟上げから行事所の解散まで1か月である。普通は院宣から行事所の開設まで1か月、さらに完成まで半年であるが、後醍醐の内裏造営は明らかに進捗状況が逆転している。これは準備過程で齟齬があり本工事を断念したとしか思えない。まさに壮大な無駄であった。建築途上の柱だけの殿をそのまま野ざらしにして放置したのであろう。建築会社で言えば、資金集めに苦労し工事を始めたところ資金が枯渇して無残にも捨て置かれた建築途上の家という感じである。後醍醐の人格を見るうえで、この時期、1220年藤原定家にたいして春の歌会出席停止処分、4月順徳天皇の指導不十分で道家に対する叱責という事態がみられた。後醍醐のヒステリーの頻度が上がってきたと思われる。後醍醐は位ばかりが高くて、自身の尊厳を傷つける者に対して容赦ない激怒ぶりは目に余るものがあった。コンプレックスが高じて裏返しの専横ぶりを発揮する手に負えない独裁者の面影がみられる。大内裏造営を進める中で苛立ちを募らせた後鳥羽が幕府をコントロール下に置くために、妥協よりは北條義時の武力追討にかじを切ったのである。1220年12月院近臣で法勝寺執行の法印尊長が出羽国羽黒山総に赴任された。尊長を通じて羽黒山の調伏の修法を行わせるためであったとみられる。日本では密教という仏法が山岳修験道と習合している。朝廷や公家は何か困難な事態が起きると、呪いや祈祷に明け暮れる。そんな暇があるならまじめに努力したらと思うのだが、中世では政治とは祭りの事でしかなかった。本書ではいろいろ修法の事が書かれているが、陰陽師や密教の理論はバカバカしいので割愛する。1220年10月ごろ後醍醐は城南離宮にいることが多くなった。城南寺の行事を名目にして兵を招集する計画を思いついたようだ。そうした中にあって、幕府は1220年4月禅曉を京都において誅殺した。源氏系の将軍候補者を完全に粛清し終えたのである。12月1日3歳の三寅の元服の儀があり、翌年将軍に就任するのである。

(つづく)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿