ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文藝散歩 五味文彦著 「源義経」 岩波新書

2008年09月30日 | 書評
源平合戦の英雄「源義経」像を文献・史料から探る 第21回

7)源頼朝との対立ー「書状」より

義経への不信を決定的にしたのが、「平家物語」の「逆櫓」、「壇ノ浦合戦」に書かれている梶原景時からの「義経自専」、「廷尉不義」と云う訴えであった。大将たる義経が御家人と先陣争いをすると云う異常な熱意である。この讒訴によって、頼朝は使者を出して田代信綱に鎌倉殿に忠誠をちかうものは義経の命を聞かなくていいと云うお触れを出した。そして「平家物語」の「腰越」ではついに義経を鎌倉へは入れなかった。義経を都へ追い返した頼朝は、大江広元、三善俊兼、二階堂行政ら側近と戦後処理を進めた。義経に与えた平家没官領の24箇所を没収した。帰洛した義経は頼朝の畿内の支配が固まっている事に気がつき、ここから院を突き上げて義経の反撃が始まった。しかし経済的基盤を奪われ、手勢の兵力も少ないので義経はしだいに追い詰められていった。8月頼朝は佐々木定綱に前備前守源行家の追討を命じた。1185年8月の除目によって、源氏一族の範頼が伊豆守、惟義が相模守、義兼が上総守、遠光が信濃守、義資が越後守、義経が伊予守に任じられた。頼朝の知行国に国司として任じられたので、頼朝の管理下の経済的基盤は一挙に拡大した。義経は伊予の国を賜ったと云うが各地には地頭が補されており国務を取ることはできなかった。九条兼実の日記「玉葉」にはこの頃から義経に関する記事が多くなるが、兼実は頼朝の推挙で摂関になろうと画策していたからである。決定的な義経と頼朝の戦いは、頼朝が義経に刺客を送ったことで戦端が開かれた。このあたりを「平家物語」の「土佐坊斬られ」を見よう。
土佐坊被斬
一方源氏の旗頭であった義経には十人の大名をつけたが、兄弟不和で近いうちに処分があると聞いて家来は鎌倉へ逃げ帰った。鎌倉殿は義経が勢いを付けぬ内に滅ぼしてしまおうと刺客土佐坊昌俊を都へ送った。都で義経に面会した土佐坊昌俊はなんとかごまかしてその場をはなれその夜討ち入る準備をしていた。義経の愛妾静御前が表が騒がしいようなので偵察に童を出したが帰ってこないので、義経は親衛隊の六七十騎で土佐坊四五十騎を攻め滅ぼした。土佐坊は六条河原で首を刎ねられた。



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