ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 田中一郎著 「ガリレオ裁判」 (岩波新書2015年10月)

2016年11月17日 | 書評
地動説を唱え、宗教裁判で有罪を宣告された科学者の苦悩と真実を裁判の記録から検証する 第9回 最終回

5) 判決とその後

1633年6月22日水曜日、ガリレオはサンタマリア・ソプラノ・ミネルヴァ修道院へ連れてゆかれた。ひざまずいたガリレオの前で判決文が読み上げられた。1616年の「いかなる仕方においても、抱くことも擁護することもできない」というセジッツィの禁止命令に対する違反、そしてベラルミーノの訓告にも違反している。「天文対話」は、コペルニクスの地動説をいかなる手段でも扱わないという命令に違反すると述べたうえで、判決の主文が宣告された。「重大で有害な過ちと違反が全く処罰されないままにならないように、同様な罪を再度クリ消さないように、ガリレオの書である天文対話を公の布告により禁止する。検邪聖省の正式な監獄に入ることを命じる。改悛の行を3年間毎週1回行うことを課す。この刑罰と改悛の行は軽減したり、変更したり、撤回する権限は我々が留保する」 判決が言い渡されるとガリレオは異端誓絶をした。「・・・・前述の誤りと異端を誓絶し、呪い、嫌悪する・・・・」 翌日からガリレオはメディチ家の別荘に軟禁と減刑された。そして7月上旬には友人だったシエナ大司教ピッコロ―ミニの下に軟禁となった。その半年後フィレンツェ郊外の自宅に戻ることができた。楚の自宅でガリレオは最晩年の著作「新科学論議」を完成したのは1636年のことであった。ガリレオは助手を使って科学研究をこなった。助手には真空の研究で有名なトリチェリらがいた。かくも判決の刑の重さと実際の処罰との隔たりは大きい。判決は教皇の権威の強さを示すだけで、実際は適用されなかったというべきであろう。結局ガリレオ裁判は新しい科学の地動説と教会の教義との討論を避け、命令違反という形で罪を問うたのである。それでもデカルトは裁判の結果を見て、自身の著作「世界論」の出版を取りやめた。宗教が科学の発展を阻んでいると非難する人が現れ、宗教と科学が対立するのは、これ以降の時代である。18世紀のフランスでは、ガリレオを蒙昧なカトリック教会に対して真実を主張し続け、果敢に戦った英雄的科学者として位置づける啓蒙主義が盛んとなった。「それでも地球は動いている」とガリレオが言ったかどうかは知らない。

(完)