ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 鶴間和幸著 「人間・始皇帝」 岩波新書(2015年9月)

2016年11月01日 | 書評
中国最初の皇帝による中華帝国の統一事業と挫折 第7回

4) 始皇帝の死と秦帝国の瓦解 (その1) 

始皇37(前210年)始皇帝は第5回目(最後になるが)目の巡行に出かけた。都咸陽から東南に向かって長江の要地南郡に行きそれから長江沿いに東進して呉に至って会稽山で祭祀をおこない、北上して琅邪台、さらに北上して山東半島の成山に登った。それから西に向かって帰途に就くのであるが、1年余りの長旅で平原津の沙丘平台において始皇帝は病を得て病没するのである。北辺の上郡にいた長男の扶蘇に宛てた遺詔を残した。「以兵属蒙恬、與喪会咸陽而葬」という12文字であった。扶蘇と将軍蒙恬は直道建設に従事していたのだが、始皇帝の遺書は蒙恬の軍隊に依拠して長子の扶蘇を始皇帝の後継者とすることを認め、咸陽において葬儀を執り行うよう指示するものである。こうして遺詔と遺体は黄河を西行氏都へ急いだ。しかしその遺詔は趙高等によって破棄された。始皇帝の遺体を前にして、趙高、胡亥、李斯の三人が動いた。彼らは新たな遺詔を偽造した。「胡亥を太子に立て、扶蘇と蒙恬を死罪にする」というものにすり替えたのである。始皇帝の死去は近習の数名しか知らず、極秘にして扶蘇と蒙恬に使者を送り知らないまま偽書を信じて扶蘇は自害した。これが史記の書く始皇帝の死と後継者指名のストーリーである。長子扶蘇と蒙恬は敗者として描かれているが、「趙生書」では扶蘇については一言もなく、協議の上、末子胡亥を後継者にした経緯が描かれている。つまり胡亥勝利者の立場である。こうして二世皇帝が即位した。即位した二世皇帝は父始皇帝を埋葬し始皇帝の陵園の完成を急いだ。史記秦始皇本紀には地下宮殿の様子が語られている。陵墓は発掘されてないが、外部から中を透視する技術の進歩が待たれる。東電福島第1原発のメルトダウンしメルトスルーした溶融燃料棒と圧力容器の内部を見る技術さえないのだから、今は「めくら象をなでる」式の把握しかできていない。しかし史記本紀の中では、秦帝国終焉の歴史の記述に最大の文字数がさかれ、さらに秦王朝内部の権力闘争と地方の反乱の勃発の歴史が、3つの本紀(秦始皇本紀、項羽本紀、高祖本紀)と一つの世家(陳渉世家)、また二つの列伝(李斯列伝、蒙恬列伝)に重複して書かれている。司馬遷は謀略家趙高を正面から描かずに、抹殺された側から描いている。史記秦本紀に始皇帝陵に関する記述がある。それによると、始皇帝陵の場所、外観、造営の過程、地下宮殿の様子、殉葬などが語られている。驪山の麓に位置し、長方形の二重の内外城壁があり(外城は南北2165m、東西940m、内城は南北1355m、東西580m)、内城には墳丘、陪葬墓区、礼制建築物がある。1974年に発掘され世界を驚かせた兵馬俑坑は外城から東に数百メーター離れている。兵馬俑坑には銅車馬、珍獣、馬厩、動物、石鎧、百戯、官人、水禽、実物大兵士8000体があり、司馬遷も兵馬俑坑の存在は知らなかったようである。今も兵馬俑坑の発掘調査は続行されている。2004年中国では地下宮殿の断面画像をえるため、リモートセンシング計画が実施された。エコー反射測定のことであるが、用いる電磁波の波長によっていろいろな技術がある。地下30メーターに巨大な空間があるほか、ピラミッド状の土盛りが発見されている。筆者らのグループは衛星画像を解析して地形を調べた(それは政府刊行の地図で地形は分かるはずだが)。始皇帝陵を守るために陵園の北に村「麗邑」を建設し人を住まわせた。麗邑を流れる古魚池川をせき止めた魚池は、始皇帝陵への河川の流入を避ける遊水地である。地下宮殿への地下水の浸透を避ける貯水池でもあった。地下宮殿の大きさは東西170m、南北145mで、墓室は東西80m、南北50m、高さ15mである。そして宮殿内には中国内の河川がながれる模型仕掛けとして水銀が流れているそうである。しかし水銀は常温では液体であるが揮発しやすい金属で、今でも存在するかどうかは不明である。

(つづく)