ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 鶴間和幸著 「人間・始皇帝」 岩波新書(2015年9月)

2016年11月02日 | 書評
中国最初の皇帝による中華帝国の統一事業と挫折  第8回 最終回

4) 始皇帝の死と秦帝国の瓦解 (その2)

始皇帝陵の東、兵馬俑坑との間に「上焦村墓葬」がある。ここは二世皇帝胡亥が、始皇帝死去の時に反対勢力を粛正したり、始皇帝の公子12人、始皇帝の皇女10人を処刑して埋葬したところである。李斯列伝によると、始皇帝の亡き後権力を掌握した趙高は、蒙毅ら大臣を殺し、公子、皇女らを処刑した。まだ微力な二世皇帝に服従を強いる粛清にあたる。殉死の強制であったかもしれない。始皇帝の死後、二世皇帝の三年(前209年10月ー前207年8月)と三代目の秦王子嬰の46日は秦帝国の崩壊に向かう歴史であった。秦始皇本紀をよめば、帝国の宮廷の混乱した内情がよくわかるという。趙高こそが、二世皇帝胡亥を通じて蒙恬と蒙毅を死罪にし、李斯に代わって政治の中枢を牛耳った。趙高は教育係であったために、即位時12歳であった胡亥に影響力持った。二世皇帝の3年間に、趙高は郎中令として禁中から帝命を発し、やがて李斯に代わって丞相に上り詰め権力を恣にした悪役のイメージが強い。趙高は秦に滅ぼされた趙国の王族の遠縁であった。秦の宮廷の雑役から身を起し、法律の知識に長けたので始皇帝によって中車府令に採用された。皇帝といつも移動を共にする車の手配管理の役であった。趙高は宦官ではなかったとされる。始皇帝や胡亥の身辺にいつも付き添い、忠誠心は人一倍強かった。したがって、教育係だった趙高に胡亥は良くなついていうことを聞いた。したがって二世皇帝が発する詔には、郎中令であった趙高の意志が現れている。他にも始皇帝の位牌を収めた廟を極廟として、天下の中心に据えた趙高の知恵が窺い知れる。天子七廟として整理しその中心に始皇帝の廟を置いた。趙高は始皇帝を神格化することで秦帝国を維持できると考えた。そのためにも始皇帝の陵園の完成が急がれた。二世皇帝に始皇帝の東方巡行を再現させ、始皇帝の刻石に新たに二世皇帝の詔書を追刻し、大臣の名を添えた。ここで初めて「始皇帝」という字が刻字された。それまでは皇帝であったからだ。同時に趙高は帝国が危機的な状況にあることを感じていたはずである。二世皇帝の巡行は秦が中華帝国を実現させる威容を示すことである。ところが二世皇帝2年には早くも陳勝の農民の反乱軍が函谷関を突破して咸陽にまで迫った。ここで地下と地上の帝国建設は中断させて、将軍章邯を中心とした軍勢で反乱鎮撫の戦争状態となった。楚王を僭称した陳勝に連動するかのように、各地で趙王、燕王、斉王、魏王、韓王を立てて挙兵した。項羽、劉邦も兵を挙げたがまだ弱小勢力に過ぎなかった。二世皇帝3年目になると、二世皇帝を排除して権力を一人で握りあ新たな帝国を目指し始めた。二世皇帝を抑えて反乱容疑で李斯を処刑し丞相に上り詰めた。李斯は上書を残して自害した。二世皇帝をいさめた右丞相馮去疾と将軍馮却には死罪を命じた。趙高は自分に疑義を抱き始めた二世皇帝を退位させ、始皇帝の長男扶蘇の子である子嬰を立てる策略を実行した。そのとき項羽が秦の将軍王離を捕縛し、将軍章邯を追った。六国の王が挙兵したという情報も入ってきた。趙高は二世皇帝を監禁して自殺に追い込み、二世皇帝を庶民に落として子嬰を秦王に立てた。だが趙高が劉邦と結託して関中の王になろうとしているという噂を耳にした子嬰は趙高を宮中で暗殺し、即位して46日目に劉邦に降伏した。子嬰や秦の皇族はことごとく項羽によって殺された。

(完)
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