ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 田中一郎著 「ガリレオ裁判」 (岩波新書2015年10月)

2016年11月10日 | 書評
地動説を唱え、宗教裁判で有罪を宣告された科学者の苦悩と真実を裁判の記録から検証する 第2回

序(その2)

本書全体を通じてガリレオ関係年譜を頭に入れておくと便利なので、まとめておく。
1564年 イタリアのピサ郊外で音楽家で呉服商のヴィンチェンツォ・ガリレイの長男として生まれる(当時、この地はトスカーナ大公国領だった)。
1581年 ピサ大学に入学(医学専攻)。
1585年 ピサ大学退学。家族でフィレンツェに移住。
1586年 最初の論文『「小天秤」を発表。
1587年 初めてローマを訪問。当時の碩学クリストファー・クラヴィウスを尋ね、教授職の斡旋を願う。
1589年 ピサ大学数学講師に就任(3年契約)。
1591年 父ヴィンチェンツォ死去。
1592年 ピサ大学の職が任期切れになる。ヴェネツィア共和国(現在のイタリアの一部)のパドヴァ大学教授(6年契約)となり移住。この頃、落体の研究を行ったとされる。
1597年 ケプラー宛の手紙で、地動説を信じていると記す。
1599年 パドヴァ大学教授に再任。この頃、マリナ・ガンバと結婚。1男2女をもうける。
1601年からトスカーナ大公フェルディナンド1世の息子コジモ2世の家庭教師を兼任(大学の休暇時期のみ)。
1608年 トスカーナ大公フェルディナンド1世死去。ガリレオの教え子のコジモ2世がトスカーナ大公となる。(1608年 ネーデルランド共和国(オランダ)で望遠鏡の発明特許紛争。)
1609年 5月オランダの望遠鏡の噂を聞き、自分で製作。以後天体観測を行う。
1609年 11月30日、月を観測し月が天体であることを理解する。
1610年 木星の衛星を発見、「メディチ家(トスカーナ大公家のこと)の星」と名づける。これを「星界の報告』」として公刊する。この頃から、地動説へ言及することが多くなる。(ケプラーが「星界の報告者との対話」を発刊、ガリレオを擁護する。) ピサ大学教授兼トスカーナ大公付哲学者に任命され、次女のみを連れフィレンツェに戻る。
1611年 リンチェイ・アカデミー入会。
1613年 「太陽黒点論」を刊行。
1615年 地動説をめぐりドミニコ会修道士ロリーニと論争となる。
1616年 第1回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から、以後、地動説を唱えないよう、注意を受ける。 コペルニクスの「天体の回転について」、ローマ教皇庁より閲覧一時停止となる。
1623年 「贋金鑑識官」、ローマ教皇ウルバヌス8世への献辞をつけて刊行される。
1631年 娘たちのいるフィレンツェ郊外アルチェトリの修道院の脇の別荘に住む。
1632年 「二大世界体系についての対話」をフィレンツェで刊行。(日本では「天文対話」) ローマへの出頭を命じられ、ローマに着く。
1633年 第2回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡される(直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑)。シエナのピッコロミーニ大司教宅に身柄を移される。アルチェトリの別荘へ戻ることを許される(ただし、フィレンツェに行くことは禁じられた)。
1637年 片目を失明。翌年、両眼を失明。以後、執筆は弟子と息子ヴィンツェンツィオによる口頭筆記になる。
1638年 オランダで「新科学対話」を発刊。口頭筆記には弟子のエヴァンジェリスタ・トリチェリが行った。晩年 振り子時計を発明。図面を息子とヴィヴィアーニに書き取らせる。
1642年 アルチェトリにて没。享年78歳

(つづく)