





景福宮で日本軍・官吏によって暗殺された(1895年)明成皇后(ミョンソンファンユ=閔妃)について先に書いたが(14日)、明成皇后にまつわる史跡は景福宮だけではない。
憲法裁判所があり観光地としても知られる安国(アングク)駅からすぐの所にある雲峴宮(ウンヒョングン、写真3)もその1つ。明成皇后の夫・高宗(コジョン)が即位するまで住んでいた。明成皇后が結婚式で着た真っ赤な衣装が展示されている(写真4、5)。
パンフレット(日本語)の「明成皇后」の説明にはこうある。「1895年、日本の蛮行により景福宮で弑逆(しぎゃく)され、大韓帝国が成立した1897年、皇后に追贈された」
安国駅から地下鉄で4番目、東大入口(トンデイック)駅の目の前に、奨忠壇(チャンチュダン)公園がある。明成皇后が暗殺された事件(乙未<ウルミ>事変)で犠牲になった朝鮮人兵士らを祀るため1900年に造成された。
公園に入るとすぐ目につくのが、その慰霊碑だ(写真6)。公園の造成とともに建てられた。ところが、「朝鮮を植民地化した日本は、この碑を抜き取りました。解放(日本の敗戦)とともに放置されていた碑を取り戻し、1969年に今の位置に移して保存しています」(『大学生が推す 深堀りソウルガイド』一橋大学社会学部加藤圭木ゼミナール編、大月書店2024年)
日本は明成皇后を暗殺したばかりか、犠牲なった朝鮮人兵士らの追悼も許さず、暗殺の痕跡を抹消しようとしたのだ。
しかし、韓国の人々が「明成皇后暗殺」を忘れることはない。自国の皇后が外国の軍隊・役人に惨殺されたのだから当然だ。
韓国人だけではない。ごく少数だが日本人の中にもこの事件を決して忘れず、今も謝罪し続けている人びとがいる。
14日のブログを読んでいただいた熊本市在住の田中信幸さんからメールをいただいた。田中さんは「明成皇后を考える会」のメンバーだ。メールの一部を田中さんに許可を得て紹介する。
「明成皇后の殺害に熊本県は深く関わっており、殺害犯48名の民間人のうち21名が熊本県人でした。しかも朝鮮で「漢城新報」(外務省機密費で創立)を発行していた熊本の九州日日新聞社の記者たちです。2005年10月8日に殺害の重要メンバーだった2人の孫・末裔の方が、事件後110年目に高宗と明成皇后の墓前で謝罪したのです」
明成皇后暗殺に熊本県人が深くかかわっていたことは知らなかった。しかもその中に新聞記者たちがいたとは驚きだ。「明成皇后を考える会」はメンバーが高齢化する困難の中で今も活動を続けておられる。
今年は明成皇后暗殺130年の節目だ。日本は、日本人はこの前代未聞の歴史事件に正面から真摯に向き合わなければならない。
※23日に仁川(インチョン)を訪れた際(その内容は後日)、柳銀珪、戸田郁子、山田由香里各氏が出版された写真集「モダン仁川シリーズ2」(図書出版 土春2025年3月)の中に、明成皇后の葬儀の写真がありました(写真1、2)。キャプションには、「1897年、アメリカ人の東洋学者ウィリアム・グリフィスが撮影した閔妃の葬儀の写真」とあります。