





23日、仁川(インチョン)の街を初めて訪れた。仁川といえば仁川国際空港で有名だが、空港と同じ仁川市中区の市街地がたいへん重要な歴史を持っていることが分かった。
清国と册封関係にあり鎖国政策をとっていた朝鮮王朝が、日本や欧州各国の圧力で仁川港(写真5)を開港したのが1883年。朝鮮半島の中ではは釜山(プサン)、元山(ウォンサン)に次いで3番目。街には「1883」のオブジェが目立った(写真4)。
仁川といえば港というイメージだが、実は朝鮮半島の鉄道の歴史においても極めて重要な場所であることを知った。仁川駅の前には鉄道開通の記念碑がある(写真3)。仁川は半島における鉄道発祥の地なのだ。
朝鮮王朝に鉄道敷設を申請したのはアメリカの実業家だった。仁川港と首都・漢城(現在のソウル)が鉄道で結ばれることに防衛上懸念を持っていた王朝だったが、1899年ついに許可した(申請者がアメリカ人だったことも許可の理由だったと推測される)。
ところが米実業家は、漢江(ハンガン)の鉄橋工事で資金難に陥り、工事はストップしてしまった。この機に乗じてその経営権を買い取ったのが渋沢栄一だ。
渋沢はここを起点に全国に鉄道網を張りめぐらせた。それは日韓併合(1910年)を経て朝鮮総督府鉄道局が経営する朝鮮総督府鉄道となった。
渋沢が朝鮮植民地支配に重要な役割を果たしたのは、主に金融(銀行)と鉄道だったが、その出発点が仁川だったわけだ。
もう1人、仁川とかかわりが深い人物といえば、ダグラス・マッカーサー元帥だ。6・25戦争(韓国・朝鮮戦争)でアメリカを中心とする「国連軍」が不利な形勢を逆転するきっかけになったのが、マッカーサーの仁川上陸作戦だった(1950年9月15日)。
仁川市中区庁舎のすぐ近くに小高い丘の自由公園(かつては各国公園)がある。韓国における最初の西洋式公園で、桜の名所としても知られ、仁川港を一望することができる仁川の象徴的な場所だ。その頂上に高さ5㍍の巨大な像が建っている。マッカーサーだ(写真1、2)。
6・25戦争を記念するものとして1957年に建てられた(なお、6・25戦争は休戦中で今も終結していない)。資金は市民の寄付によって賄われたという。マッカーサーは6・25戦争におけるヒーローだったのだ。
毎年、上陸作戦の時機には仁川中区庁と米軍が一体となって記念祭が行われたという。ただし、それは区長が保守系の時で、進歩系の区長に交代すると祭りどころかマッカーサー像の存在自体への批判が高まるという。6・25戦争と韓国の複雑な関係がここにも示されている。
自由公園には6・25戦争以前、欧米各国の領事館などの立派な建物があった(だから当時の呼称が各国公園あるいは万国公園)。しかしそれらは今はない。6・25戦争の空襲で破壊された。空襲を命じたのはマッカーサーだ。マッカーサーは仁川の街並みを破壊した張本人でもある。
仁川駅の目の前からチャイナタウンが続く。観光客が最も訪れる場所だ。その一角に「じゃじゃ麺博物館」という面白い博物館がある(写真6)。あの黒々とした麺だ。商品のPRではない。
仁川はもともと各国の租界があった地で、中国からも多くの華僑が渡ってきた。彼らが持ち込み普及させたのがじゃじゃ麺だ。それは外食産業だけでなく土木工事を含め仁川の開発と深い関係があった。デリバリーの発祥でもある。
同博物館には、朴正煕政権(当時)が米と麺類(小麦)の混合食を強権的に推奨したことも展示されている。朴正煕がなぜ混合食を推奨したのか。アメリカから小麦輸入の圧力があったからだ。
韓国の近現代史は、日本帝国主義の植民地政策とともに、6・25戦争はじめアメリカとの関係を抜きにしては考えられない。そしてその評価は一筋縄ではいかない。
仁川はそうした複雑な韓国近現代史を象徴する場所の1つなのだ。見落としたところもたくさんある。ぜひ再訪したい。