





9日、景福宮(キョンボックン)を訪れた。光化門前広場には何度も行ったが、その奥にある景福宮は初めてだ。
ソウルにはかつての朝鮮王宮跡が5つある。景福宮の他、昌徳宮(チャンドックン)、徳寿宮(トクスグン)、慶煕宮(キョンヒグン)、昌慶宮(チャンギョングン)だ。
中でも景福宮が最も古く、観光地としても著名。この日も朝から、韓服を着た外国人観光客などが大勢見られた。
だが、入口の勤政門から広がる広い敷地の一番奥(北)、そして左(西)の端にある2つの場所まで行く人は多くなかったようだ。しかし、この2つの場所こそ景福宮の最も重要な歴史を示す跡だ。
1つは、西の迎秋門(写真4=外、5=内)。
1894年7月23日、日本軍はこの門を破壊して侵入し、景福宮(朝鮮王宮)を占領した。これが日清戦争の起点だ。
「日清戦争で、日本軍が最初に武力を行使したのが、この朝鮮王宮占領だったことは、日清戦争を戦った日本政府の本当の目的がどこにあったかを、よく物語っています」(中塚明著『これだけは知っておきたい 日本と韓国・朝鮮の歴史』高文研、2002年初版・2022年増補改訂版)
もう1つは、北の端の乾清宮の門(写真6)をくぐるとすぐ目の前にある坤寧閤(コンニュンハプ)(写真1、2、3)。明成(ミョンソン)皇后が居住していた場所だ(「日本では「閔妃」として知られていますが、韓国では日本の侵略に立ち向かった王妃として尊敬を込めて「明成皇后」と呼ばれています」中塚明氏=前掲書)。
日本による王宮占領に対し、当然ながら朝鮮国内の反発は強まり、抗日の機運が高まった。その1895年の10月8日、日本公使(今でいう駐韓大使)・三浦梧楼(長州藩出身、退役陸軍中将)率いる軍隊が王宮に押し入り、寝ていた明成皇后を虐殺するという驚天動地の事件が起きた(乙未事変)。その殺害現場が坤寧閤だ。
三浦らは日本(広島)で裁判にかけられたが、免訴となった。そればかりか三浦はその後、枢密顧問官、宮中顧問官など政府の要職を歴任し、1915年には天皇から最高位の旭日大綬章を受け、79歳まで生き延びた。
この明成皇后暗殺には歌人の与謝野鉄幹もかかわっていたとみられ、日本に連れ戻されている(中塚明氏前掲書)。
これが日本の朝鮮侵略の実体だ。
他国の王宮に押し入り、皇后(王妃)を虐殺して焼き捨てる。フィクションではない。米軍が皇居に押し入って皇后を殺害する、などということが想像できるだろうか。しかし日本はそれを現実にやったのだ。
直接手を下したのは三浦らだが、その後の三浦の足跡を見れば、この蛮行の責任は三浦らだけでなく、天皇を含む日本全体にあることは明白だ。
しかも重大なのは、この前代未聞の事件に対し、日本はいまだに正式に事実を認めて謝罪すらしていない。
そしてさらに重大なのは、この重大な歴史の事実を、多くの日本人が知らないということだ。韓国を訪れて景福宮には行っても、坤寧閤には行かないということだ。
坤寧閤の前でしばしたたずんだ。この建物の板に、この庭の土に、明成皇后の血がしみ込んでいる。遠い昔のことではない。わずか130年前の出来事だ。