アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「沖縄復帰50年式典」に天皇が出席した特別な意味

2022年05月16日 | 沖縄と天皇・天皇制
   

 15日の政府・県共催「沖縄復帰50年記念式典」に徳仁天皇と雅子皇后がオンラインで出席しました。これには天皇の一般的な儀式出席とは異なる特別な意味があります。

 全員起立した「君が代」で始まった式典で、徳仁天皇は、「大戦で多くの尊い命が失われた沖縄」「その後も苦難の道を歩んできた沖縄の人々の歴史に思いを致し」などと述べる一方、50年前の「本土への復帰」は「日米両国の友好と信頼」に基づくものだと述べました。

 住民の4人に1人が犠牲になった沖縄戦は、徳仁天皇の祖父・裕仁が「本土防衛」の時間稼ぎのために沖縄を「捨て石」にした結果であり、「その後の苦難」の元凶である米軍占領・軍事植民地化も、天皇裕仁の「沖縄メッセージ」(1947年9月)がもたらしたものです。

 徳仁天皇のあいさつは、そうした天皇裕仁の沖縄に対する加害性・犯罪性を隠ぺいするとともに、講和条約・日米安保条約(軍事同盟)の対米従属的本質を歪曲するきわめて政治的な発言と言わねばなりません。

 それだけではありません。天皇の「復帰式典」出席には特別な意味があります。それは50年前の「復帰」と天皇制の関係にさかのぼります。

 天皇裕仁は「沖縄メッセージ」で、沖縄を軍事基地としてアメリカに差し出すとともに、主権を日本に残す「信託統治制度」を提案しました。裕仁はなぜ主権を日本に残すことにこだわったのか。

 豊下楢彦・元関西学院大教授はこう指摘します。
「仮に沖縄が日本から完全に切り離されるならば、沖縄の米軍と日本本土(裕仁における「日本本土」とは、「皇大神宮の鎮座する神州」<1944年7月26日の『昭和天皇実録』>―私)の防衛との関係性が薄まる恐れがある以上、形だけでも日本の主権が残されることが必須の課題なのである」(『昭和天皇の戦後日本』岩波書店2015年)。

 豊下氏は、それは評論家・仲里効氏が言う「排除的包摂」、すなわち「排除しつつ包摂すること」にほかならないと言います。そしてこう続けます。

「逆に、1972年の沖縄の「本土復帰」は、それまでの排除しながら繋ぎ止める「排除的包摂」に代わり、繋ぎ止めながら排除する「包摂的排除」への移行に他ならない。つまりは、つとに指摘される「沖縄差別」という問題である」(前掲書)

 50年前に天皇裕仁が正面に座って行われた「復帰式典」(写真中)は、「繋ぎ止めながら排除する」=「包摂的排除」の儀式でした。

 そして50年後の「式典」も、沖縄戦に起因する経済的・社会的困難を放置し続けながら、日米軍事同盟をさらに強化し、高江へリポートや辺野古新基地建設強行に加え、沖縄諸島をミサイル基地化する自衛隊増強という新たな「包摂的排除」、新たな「沖縄差別」を図る政治的意図のもとで強行されたのです。

 天皇はまさに「包摂的排除」の「象徴」であり、だからこそ日本政府(国家権力)にとって天皇の「式典」出席は不可欠だったのです。

 それは、安倍晋三首相(当時)が2013年の「4・28」(講和条約発効、沖縄の屈辱の日)の政府主催式典に明仁天皇(当時)を出席させ、「天皇陛下、万歳」と叫んだ(写真右)ことと同じ政治的意味を持つものです。

 天皇裕仁が「沖縄メッセージ」でおこなった「排除的包摂」は、「復帰」によって「包摂的排除」に転化し、子の明仁、孫の徳仁がその象徴となって継承されています。ここに沖縄差別と天皇制の連続的関係性が端的に表れています。

 蛇足ですが、その天皇に対し、「式典」で玉城デニー知事が、「ご健勝と皇室の弥栄(いやさか)」を祈ると、岸田文雄首相も山東昭子参院議長も言わなかったことを口にしたのには、唖然としました。

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