アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

ソウル訪問・西大門刑務所と「朝鮮のジャンヌダルク」

2016年12月26日 | 朝鮮半島の歴史・政治と日本.

     

     

 朴大統領への抗議デモが続けられているソウルのメーンストリートから地下鉄で3番目の駅(独立門)。静かな空気の中に、長い赤れんがの壁が続きます。「西大門刑務所歴史館」です。

 1908年に京城監獄として開所。12年に西大門監獄、23年に同刑務所に変更。戦後は「ソウル刑務所」となり(87年に移転)、「韓民族の受難と苦痛を象徴」(同館パンフレット)する場となっています。
 「日本帝国主義時代には、祖国の独立を勝ち取ろうと日本帝国主義に立ち向かって戦った独立運動家達や、解放(1945年8月15日ー引用者)後の独裁政権期には、民主化を成そうと独裁政権に立ち向かって戦った民主化運動家達が監獄暮らしの苦しみを味わい、犠牲になった現場」(同)だからです。

 入館して真っ先に目に飛び込むのは、朝鮮の「完全植民地化へ向けて采配をふるった」(梶村秀樹氏『朝鮮史』講談社現代新書)、伊藤博文(「統監府」初代統監)の大きな写真です(写真上右)。
 2階の展示室には犠牲になった人々の顔写真と経歴が一面に張り巡らされています。平日の昼間にもかかわらず来館者(観光客とは見えませんでした)は絶えないようです(写真下左)。

 冷たい館内の空気がひときわ肌を刺したのが、展示館地下の拷問室です。拷問道具が並ぶ取調室、鋭い牙で三方を囲まれた拷問箱(写真下中、右)。韓国の運動家に対して日本の警察が暴虐の限りを尽くした現場です。

 1919年の「3・1独立運動」のさ中、16歳の少女が日本軍・警察によって逮捕され、1年7カ月の投獄・拷問の末、ここで虐殺されました。「朝鮮のジャンヌダルク」(中塚明氏『日本と韓国・朝鮮の歴史』高文研)といわれる柳寛順(ユ・グアンスン)です。

 「当時、梨花学堂(いまの梨花女子大学)に在学中の16歳の少女でしたが、郷里に帰って定期市の日に村人と一緒に独立行進し、その先頭に立ちました。憲兵の発砲で寛順の両親をふくむ30余人が死亡、彼女は首謀者として逮捕され懲役刑の宣告を受けました。しかし、『日本人にわれわれを裁く権利はない』と法廷闘争・獄中闘争をやめず、1920年10月、たびかさなる拷問がもとで、西大門の刑務所で18歳の生涯を閉じました。最後の言葉は、『日本はかならず亡ぶ』だったそうです」(中塚氏、同)

 首都ソウルの中心から目と鼻の先に、「民族の受難と苦痛の象徴」として広い敷地の刑務所跡を遺し、歴史館とし、「独立と民主の現場!」(同館パンフ)として人々が訪れる。
 朴大統領を糾弾し政治の民主化を求める「ろうそくデモ」の底流を流れる韓国民衆の伝統を見る思いでした。

 そしてなによりも、それは帝国日本の、あるいはそれ以前からの日本の、侵略・植民地化に対する韓国・朝鮮民衆の命がけの抵抗・たたかいの歴史・伝統にほかならないことを、日本人として肝に銘じなければならない、と自分に言い聞かせました。


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