アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

北朝鮮を見る目は歪んでいないか

2016年05月10日 | 日米安保と東アジア

   

 偏見に基づいた報道がいかに有害化か、とりわけ中国、朝鮮半島についてのそれがどんなに危険なことか、70~80年前、いいえ百数十年前からの近現代史の苦い教訓がそれを示しています。
 その教訓は今日に生かされているでしょうか。
 8日から行われた北朝鮮の朝鮮労働党大会に対する日本のメディアの報道・論評は、果たして公平・公正なものといえるでしょうか。

 北朝鮮が一党独裁の非民主的国家であることは否定できません。北朝鮮に対する厳しい批判は当然必要です。しかしそのことと、北朝鮮に対する報道・論評が偏見に満ちていることとはまったく別問題です。
 日本のメディアの北朝鮮報道はけっして公平・公正とは言えません。ここでは2つ挙げます。

 1つは、朝鮮労働党大会の「核保有」をめぐる報道・論評です。

 金正恩第一書記は党大会で、「核武力を質量ともに一層強化する」とともに「敵対勢力が核で自主権を侵害しない限り核の先制使用はしない」と明言しました。「先制使用も辞さない」という従来の姿勢を転換したものです。

 これに対し、菅官房長官は直ちに「断じて受け入れられない」と切り捨てました。
 そしてメディアも(産経、読売、NHKなどは論外として)、朝日新聞が社説(10日付)で「過ちを改める考えはないという独善である」とし、毎日新聞も社説(10日付)で「非核化への努力という言葉に真実味は感じられない」と断じました。

 同時に、「朝日」は「国際社会が求めるのは、前提条件なしの核放棄である」とし、「毎日」も「新たな核保有国の出現を許さないのが核拡散防止条約(NPT)の精神である」と述べ、北朝鮮批判の根拠としました。
 これらの指摘自体は当然です。問題は、この基準に照らして北朝鮮を批判(非難)するなら、なぜアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国の「核保有大国」、さらに「アメリカの核の傘」にいる日本を批判しないのかということです。

 北朝鮮が「核保有大国」とりわけアメリカとの対抗上、「核保有」を誇示していることは明白です。それらはいずれも「核抑止力」の誤りに基づくもので、両方批判されなければなりません。にもかかわらず「核保有大国」および日本への批判は棚上げしておいて北朝鮮だけを批判する。これが公平・公正でないのは明らかです。

 労働党大会と時期を同じくして、ジュネーブでは「核兵器禁止条約」へ向けて国連の核軍縮作業部会が開かれましたが、「最大の核保有国、米国は会議そのものをボイコット、米の『核の傘』の下にある日本も核禁止には反対を貫(き)」(8日付中国新聞)いたのです。こうした事実を不問にして北朝鮮だけを批判することこそ「独善」ではないでしょうか。

 もう1つは、「挑発」という決めつけです。

 3~4月にかけて北朝鮮は数回にわたって「ロケット発射実験」を行いましたが、そのたびにメディアは異口同音に「北朝鮮の挑発」と批判しました。しかし、この時期はアメリカと韓国がかつてない規模の米韓合同軍事演習を行っていたさ中です。北朝鮮の「ロケット発射」がそれへの対抗であったことは明白です。
 「挑発」というなら、北朝鮮の領土・領海のすぐそばで大規模軍事演習を行った「敵対国」アメリカ、韓国の行為は「挑発」ではないのでしょうか。北朝鮮が行うことをすべて「挑発」と呼ぶことが果たして公平・公正でしょうか。

 北朝鮮に対するこうした偏見・偏向は、もちろん、メディアだけの問題ではありません。メディアによって日本人の中に北朝鮮(朝鮮人)や中国に対する偏見が作られ助長され、日本人の偏見がメディアの偏向を許し増幅する。そんな相互作用の関係ができあがっているのではないでしょうか。

 何がそうさせるのでしょうか。
 北朝鮮の政治、あるいは朝鮮半島、東アジアの情勢を見るうえで、私たち日本人に決定的に欠けているものがある、と自戒を込めて痛感しています。
 それは「朝鮮戦争(1950年~)」についての認識です。朝鮮戦争と日本、私たち日本人との関係です。
 朝鮮戦争は、まだ終わっていないのです(続きは明日)。


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