きょう6月23日は「沖縄慰霊の日」です。
この日を「慰霊の日」とするのは適切ではない、と2年前(2013年6月22日)に書きました。理由の1つは、6月23日以降も沖縄での戦闘は続いたからです(米軍資料でも6月23日~30日に8975人の日本兵が殺害)。沖縄の日本軍が正式に降伏文書に調印したのは、8・15よりもさらに遅い9月7日でした。
もう1つは、6月23日が「慰霊の日」とされている理由が、沖縄第32軍司令官・牛島満中将と参謀長・長勇中将が糸満市摩文仁で自決(写真中は自決場所)した日だからです。牛島、長の自決(命日)を「沖縄慰霊の日」とするのは、日本軍中心の発想にほかなりません。
むしろ「戦争法案」が出されているいま、牛島、長の「自決」がどういう意味をもっていたかを考えてみることが重要ではないでしょうか。
第1に、彼らの「自決」はきわめて無責任な行動でした。
安仁屋政昭沖縄国際大名誉教授はこう指摘しています。
「軍司令官が数十万人におよぶ非戦闘員を戦場においたまま、それを救うための米軍との交渉、その他の努力をまったくせずに、さっさと自決してしまうのは・・・まったく無責任な話であるといえよう」(『沖縄戦再体験』)
牛島、長は沖縄県民を見捨てたまま、勝手にいなくなったのです。
第2に、牛島は県民をただ見捨てただけではありませんでした。
よく知られているように、彼は自決の直前に次のような軍命を発しました。
「各部隊は各地における生存者中の上級者之を指揮して最後迄敢闘し悠久の大義に生くべし」
全員玉砕するまでたたかえという命令です。
第3に、こうした牛島、長の無責任・住民犠牲の根源は何かということです。
安仁屋氏は先の指摘に続いて、こう述べています。
「沖縄戦における軍の行動に県民に対する配慮と責任感が欠けていたのは、いうまでもなく天皇の軍隊であって、国民軍ではなかった日本軍の体質に由来するものであった。沖縄戦の構想自体も、このような帝国軍隊の特質と深くむすびついたものであった。天皇の軍隊である皇軍によって遂行された沖縄戦の論理は、結局のところ、『国体護持』の立場であり、民衆の立場に立つものではなかった」(同)
この指摘を裏付ける事実が、今日の沖縄タイムスで我部政男山梨学院大名誉教授によって示されています。
「牛島は『訣別の辞』を残している。文章全体の調子は天皇への謝罪が主である。・・・敗北は、陛下に対し真に申し訳ない。最後の決闘に臨んでは、散華した将兵の英霊とともに皇室の弥栄を祈念し皇国の必勝を確信すると述べる。辞世に言う。 秋待たで枯れ行く島の青草は皇国の春に甦らなむ」(沖縄タイムス2015年6月23日付)
牛島の「辞世」は、沖縄県民を「島の青草」にたとえ「皇国の春」を願って死んでゆく、というとんでもない内容です。
牛島や長が沖縄県民を犠牲にしてはばからない根源は天皇崇拝であり、そこに「天皇の軍隊」の本質が表れていると言わねばなりません。
その「天皇の軍隊」が「6・23」以後に行った蛮行として忘れてはならないのが、久米島住民大虐殺です(写真右は久米島にある慰霊碑)。
森口豁氏『沖縄・近い昔の旅』によれば、6月27日から8月20日の間に、子ども(1歳から)7人を含む21人の久米島島民が日本軍によって「スパイ容疑」などで虐殺されました。
その隊長だった鹿山正・元兵曹長は戦後週刊誌(「サンデー毎日」1972年4月2日号)で、悪びれもせずこう語っています。
「なにしろワシの部下は三四人、島民は一万人もおりましたからね。島民が向こう(米軍)側に行ってしまったらひとたまりもない。だから島民の日本に対する忠誠心をゆるぎないものにするためにも、断固たる処置が必要だった。島民を掌握するためにワシはやったんです」
鹿山の言う「日本に対する忠誠心」とは、「天皇に対する忠誠心」と同義です。
「6月23日・慰霊の日」は、ただ沖縄戦の犠牲者を悼むだけでなく、住民犠牲の根源である「天皇の軍隊」の無責任さ、残虐さを思い起こし、天皇制廃止、非戦・非武へ誓いを新たにする日にしたいものです。