あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

佐々木二郎大尉の四日間

2019年11月15日 17時15分18秒 | 赤子の微衷 4 後事を托された人達 (末松太平、大蔵榮一、佐々木二郎)


佐々木二郎 

昭和十年の暮れ、大蔵大尉が戸山学校より中隊長として帰隊した。
正月、私の宅で二人で碁を打った。
「 磯部は落ちついているかな 」
と きいた。
急進論の磯部を抑える一人と思っている大蔵が東京にいなくなるからだ。
「 ウン、磯部と栗原がいつもヤルヤルというのに、おれや西田らが反対するのでダラ幹呼ばわりしやがった。
おれも腹にすえかねたが、今度おれの送別会のとき側に来て
『 大蔵さん、今まで嫌なことをいって相済まぬ。ヤッテはいかぬとわかっているが、
年寄りの相澤さんがヤッタので、若いわれわれは心中 相済まぬ思いで一杯でした。
その相反する思いが胸のなかで渦巻き、やるぞやるぞといったのです。
公判で逐次事件の真相も世間にわかるでしょうし、私の心も落ち着きました。
羅南に帰ったら、佐々木が心配しているから宜しくいって下さい 』
と 謝ったのでおれも氷解したよ 」
と いうことで私も安心した。

磯部浅一   
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もう待ちきれん 
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相澤事件の真因は私にはわかっていなかった。
士官学校事件や総監更迭問題に誘発されたという表面上のことは一応わかるが、
中佐という地位年輩から考えて もっと根がありそうに思えた。
明治以降、陸主海従
、海主陸従、北進論、南進論 など いろいろの説を聞くが、
日露戦役後確固たる国策があったのか疑問に思っていた。
この疑問は現在でも残っている。
第一次大戦でドイツは敗れた。
陸の露と海の英米を相手にしたからだ。
現在の日本もそれに似た危険があるのではないかと思った。
満州国ができた現在、これを安定した状態にもって行くことが国策の第一義的なもので、
この点は北一輝の日支同盟 日米経済提携の考え方は的を射ていると思った。
英米との対決は大陸に確固たる基礎ができた後でよいと、私なりに考えていた。
このような考えから鵜沢弁護人に対し、
左官級の人が ただ単に巷説を信じて行動するようなことは考えられぬ。
相澤中佐の思想動機を深く掘り下げて、将来に禍根を残さないようにして頂きたい旨を書き、
末尾に各隊の同意した将校が名前を自署した。

昭和十年の暮、朝鮮軍司令官に小磯国昭中将が就任した。
昭和十一年一月か二月初めに、羅南に来て将校全員を雪中演習場に集めて訓示があった。
『 葛山鴻爪 』 によると 四月になっているが誤りではなかろうか。
四月では私は拘禁されているからだ。
訓示のなかで、「 革新の先頭に立つ・・・・」 の 言葉があった。
その帰途、中川範治少尉が、
「 佐々木大尉殿、軍司令官の話をどう思いますか 」
「 今日のような席で革新の先頭に立つとかいうようなことは、
 軍司令官の言葉としてはどうかと思う。 そんなことはわれわれ尉官級のいうことだ。
軍司令官の立場は自己の施策の上に表していくべきで、今日の情勢下では少々若い者に迎合的だよ 」
「 なるほどそうですね。ヨシ今から軍司令官の宿へ行って来る 」
といって彼は立ち去った。
行ったか行かなかったか、その後 ききもしなかったが、
『葛山鴻爪 』 では 訓示の中に革新云々の文句はないが、
後で数名の若い将校が不審の点を聞きに来たので、説明したら納得して帰ったとある。

二月、相澤公判は一世の視聴を集め、鵜沢博士も本腰を入れたごとく、
膿も出るだろうが陸軍部内もこれを契機に明るい方に行くだろうと思った。
三月の異動で、私は満洲国博克図の鉄道守備隊副官の内命を受けた。
副官なんて性に合わぬ仕事だが、満州ならば少し研究の価値もあろうと自ら慰めた。
以後、中隊長としての申し送りの事務の整理をはじめ、転任の準備を進めた。
二十五日、相澤公判に証人として真崎大将出廷、ある期待をもっていたが証言拒否して何事もない。
肩透かしをくったと感じと、用心深い人だと思った。
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二十六日、
任地赴任の経路、家族同伴の問題など調査のため経理室に行くと、
先年現地除隊した中隊の下士官Aが来合せ、
「 佐々木大尉殿、今朝 東京で青年将校が軍隊を率い首相官邸を襲撃しました 」
と 知らせてくれた。
私は大蔵大尉から磯部が落ちついたことを聞いていたので、 「 そうか 」 と 聞き流して室を出た。
週番指令室の前を通りかかって、大蔵が司令であるのを思い出し、立ち寄って今の話をした。
さすがに東京の事情に精しい大蔵は他にやるものはないと判断したらしく。
「 そうか、一緒に連隊長のところへ行こう 」
連隊長は、
「 ちょうどよかった。呼ぼうと思っていた 」
と、いって事件の概要を話してくれた。
私はなぜ蹶起したか、その理由がわからなかった。
相澤事件では軍内部のことだし、
しかも公判によって真相はこれからという段階だから、契機となすには条件が未熟である。
これで磯部は死ぬという思いが胸中を挽かすめた。
リンク →  大蔵栄一大尉の四日間 1 
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二十七日、
大蔵大尉が尉官会を開こうというので同意して午後集会所に集まった。
十月事件のとき、権勢欲の強い幕僚は成功したら勲章をやるといったので、
青年将校はその不純を嫌い、反対に自決して闕下に罪を謝すべきだといったと聞いていたので、
今頃は部隊は原隊に復帰していると思っていた。
「 今日 東京で大事件が勃発した。軍としては大失態である。
 しかし やった連中は同じ士官学校を出て、真面目に日本の現状を憂い将来を案じてのことと思う。
趣旨は国体の真姿顕現という。
満州事変以来軍の進出を喜ばない連中は、この軍の失態に乗じて攻勢に出ると思う。
われわれはこれに動かされてはならない。この態度を連隊長にいって安心して頂こう  」
と 私はいった。
大蔵もほぼ同じ様に、連隊から師団にもいって貰うといった。
皆同意して今夜連隊長宅を訪問することになった。
帰宅して夕食をすませると、偕行社から服の仮縫いにやって来た。
満州転任のため、注文をしていたのだ。
仮縫いをしているときに朝山が来訪した。
今日の尉官会の話をすると、
「 それはよいなー。おれの方も連隊長に話そう 」
朝山も事件は既に終息していると思っていた。
仮縫いや朝山来訪のため、その夜 連隊長宅に行けなかった。
リンク →  大蔵栄一大尉の四日間 2 
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二十八日、
将校集会所で大蔵大尉が、
「 連隊長が東京に行って様子を見て来いというので、二十九日清津から船で行く 」
と。
「 最初 連隊長は個人の資格で行けというので、それはおかしい。
様子がわからなければ師団参謀をやればよいでしょうというと、君が一番東京の事情に詳しいからだ。
師団長も了解済みですかときくと ウン という。
しかし途中で掴まりますよというと、安野憲兵分隊長を呼んだ。
やはり関釜連絡船は駄目だ。
しかし、二十九日に出る清津---新潟航路の船ならば、乗船時に私の手で警戒を解くというので
二十九日の船に決まった。
週番指令は軍医を呼んで風邪にして勤務を葛西大尉と交代、
旅費百円は経理部から出してくれた 」
と いうことであった。
私の官舎は憲兵隊の近くにあったので、二十七日、八日の帰途憲兵隊に立ち寄り、
安野分隊長より 「 軍政府樹立か 」 「 後継首相は誰か 」 とかいったような東京からの情報を聞いたが、
行動隊が未だ 頑張っている話は全然なかった。
このことは今考えてもおもしろいことで、人間の思考に何か盲点があることを感じた。
リンク → 大蔵栄一大尉の四日間 3 
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二十九日の朝、
朝山、大蔵が来て、
「 ラジオで大命に抗したので討伐を始めるといっているが、一体状況はどうなっているのか 」
三人でいろいろ話し合ったが、
焦点は
「 なぜ大命に抗したか 」
「 これに対し何をするか 」
の 二点であった。
私は行動隊が未だ撤退しなかったのには驚いた。
記述のごとくその当日、原隊に復帰しているものと思い込んでいたからだ。
このことは日記に書いていたので後日押収され、私に有利な材料となったと思う。
大命に抗する連中でないのに、その結果が出たとすれば、
① 大命が下達されなかったか
② 偽りの大命と彼らが思ったか
の 二つだと判断した。
そこで 皇軍相撃つの悲劇を救う手段として、
師団の無線を使って われわれの名前で彼らに連絡することだ、
と 意見一致して 師団長を訪ねた。
順序として当該連隊長を通じて意見具申すべきだがその時間的余裕がないので、
七三の連隊長と野砲の連隊長を呼んで貰い、
その前で師団長に対し、
記述の旨を大蔵大尉がまず述べた。
 師団長  鈴木美通中将
「 師団無線を君らの名で打つことは 」
と、鈴木美通中将は難色を示した。
「 日本軍同志相撃つという大事を救うのは、名前は個人でも、することは公のことです。
 われわれの名前があれば 彼らは信用するかも知れぬからです。
操典にいう百方手段を尽くすときです 」
聞いていた柳下重治参謀長は、
「 君たちのいうことは道理だ。閣下、これは打ったがよいと思います 」
と いった。
私は師団対抗演習で数日行動をともにし、
また記述の連隊長との間のいざこざといい、
この人はなかなか腹もあり頭も柔軟な立派な人だと思った。
文案を私に作れと参謀長がいうので、
別室で考えたが、東京における経緯が少しもわからないので、
記述の判断から、
「 理由のいかんを問わず大命に従い奉るべし 」
と 書いて、三人の名を認めた。
昼頃、連隊本部から、師団が打電した旨知らせてきた。
しかしこの電文は、戒厳司令部から彼らに伝えるまえに、事件は終息したと予審のときにわかった。
同日の夜、連隊長宅に大蔵と三人で話しているとき、
池田中尉より、
八師団の将校から
「 八師決意いつにても可、待機 」
の 電報が来たことを聞き、
「 連隊長殿、まだ何が起こるかわかりませんよ 」
と いった。
このことが後の取り調べで、私が連隊長に暴言を吐いたことになっていた。
大蔵も上京を止めたので、連隊長は
「 ありがとう、ありがとう 」
と 涙を流して喜んだらしい。
しかし この大蔵の上京の件も、
大蔵が部隊にいると何を仕出かすかわからぬので、
東京に追いやる考えだったと証言しているのを、東京の法廷ではじめて知った。
リンク → 大蔵栄一大尉の四日間 4
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佐々木二郎 著
一革新将校の半生と磯部浅一
から