今月の24日までだった宮沢賢治展へ行ってきた。
詩人、童話作家、そして「雨ニモマケズ」で知られる賢治の世界観を
時代を追って知る展示会だった。
1896年(明治29)、岩手の稗貫(ひえぬき)群里川口村(現在の花巻市)に
名門・宮沢家の長男として生まれた賢治は
37歳という若さで亡くなっている。
その間に創作した詩や童話の数の多さには目をみはるものがある。
この展示会では有名な「雨ニモマケズ手帳」を
今回は複製ではなく、実際の手帳をを期間限定で公開していたが
私は日程の都合で見ることが出来なかった。
展示されている写真や実際の原稿で注目していたのは
学生時代に知り合い、賢治作品に多大な影響を与え
共に理想の農業を志した親友「保坂嘉内」への手紙であった。
名作「銀河鉄道の夜」のカンパネルラとジョバンニは
保坂嘉内を想定して書かれた。
文芸同人誌「アザリア」の仲間と。(大正6年10月30日)
後列の右が賢治、左が保坂嘉内。
しかし「アザリア」に載せた保坂の散文により彼は学校を退学処分になり
故郷の山梨に戻った。
その後ふたりの親交は手紙のやりとりとなった。
故郷の山梨に戻った。
その後ふたりの親交は手紙のやりとりとなった。
保坂への手紙。1921年(大正10)12月(推定)
この頃、農学校の教師を始めた賢治。
学校の様子や創作に励んでいることなどが書かれている。
「決別の朝」の原稿。
結核で妹トシが世を去った悲しみと克服しがたい苦悩に満ちた詩。
賢治生存中に刊行された本は2冊。28歳の時だった。
『春と修羅』と『注文の多い料理店』(共に1924年)
保坂嘉内が描いた電信柱の絵にインスパイアされたのだろうか。
賢治が描いた「月夜のでんしんばしら」
原画は戦災により焼失したという。
他に展示されていたのは
小岩井農場や「イギリス海岸」と賢治が名づけた北上川の写真、
理想郷の舞台であった花巻市のイーハトーブとした風景写真、ヴィオラとバイオリンなど。
幼い頃より鉱物に親しみ、関心は文学、法華経信仰、農業、
宇宙や測量、音楽にまで及ぶとほうもない才能は作品の中にちりばめられ
自然と一体となって生きた賢治の人気は今も衰えない。
この頃、農学校の教師を始めた賢治。
学校の様子や創作に励んでいることなどが書かれている。
「決別の朝」の原稿。
結核で妹トシが世を去った悲しみと克服しがたい苦悩に満ちた詩。
賢治生存中に刊行された本は2冊。28歳の時だった。
『春と修羅』と『注文の多い料理店』(共に1924年)
保坂嘉内が描いた電信柱の絵にインスパイアされたのだろうか。
賢治が描いた「月夜のでんしんばしら」
原画は戦災により焼失したという。
他に展示されていたのは
小岩井農場や「イギリス海岸」と賢治が名づけた北上川の写真、
理想郷の舞台であった花巻市のイーハトーブとした風景写真、ヴィオラとバイオリンなど。
幼い頃より鉱物に親しみ、関心は文学、法華経信仰、農業、
宇宙や測量、音楽にまで及ぶとほうもない才能は作品の中にちりばめられ
自然と一体となって生きた賢治の人気は今も衰えない。