マイケル・ジャクソンのリハーサル映画「THIS IS IT」のポスターにこう書かれている。
チームはファミリーであり、愛でひとつのステージを創ってゆくと言うマイケルの姿は胸を打ち、感動的である。
神が与え給うた稀代な才能は映像の中で永遠にその姿をとどめ伝説を生んでゆく。
画像はシネマトゥデイ様よりお借りしました
http://www.cinematoday.jp/movie/T0007922
アレックス・プロヤス監督「スピリッツ・オブ・ジ・エア」は
オーストラリアの乾いた砂漠と圧倒的な大空を心に残す映画であり
明るい大地に哀感がにじむ作品である。1989年放映 砂漠の中、1軒の家に足の不自由な兄フェリックスと妹ベティは父の遺言で
この場所を離れずに暮らしている。
歩くことが出来ないフェリックスは模型の飛行機を毎日造り
いつか山を超えて飛び立ちたいと夢みている。
しかし妹は父の言葉を守りこの場所にずっといるつもりだ。
ある日、北へ逃亡しているスミスという男が現れ
ここから出たいと思っているフェリックスと意気投合し
二人はベティの反対にもかかわらず自家用飛行機を作りはじめる。
飛行機は出来上がりいよいよ出発というその時、
フェリックスは行かないと言い、スミスだけが北をめざして飛び立った。
フェリックスのあきらめの叫びと涙は太陽の光と風に消える。
兄の飛翔と妹の閉塞。そして土地への思考を持たない第三者である逃亡者の
奇妙なバランスで物語は進む。
妹の個性と場違いにもみえるコスチューム、多くの十字架などが
この映画の美術的要素をさらに強くしている。
そして風のような音楽はこの映画の心象風景となって胸を打つ。
ああ
飛行機
飛行機
ぼくが
世界でいちばん
孤独な日におまえはゆったりと
夢の重さと釣り合いながら
空に浮かんでいる
寺山修司 「飛行機よ」 より抜粋
フランスの巨匠マルセル・レルビエが1923年に製作した映画 「人でなしの女」 は
アールデコスタイルの美術が結集され、20年代に関心が高まった科学技術と近未来への無限の夢を
映像へ神秘的に焼きつけた芸術的作品といえる。
世に名高い歌姫クレール・レスコーはその魅力で多くの男性を虜にするが
気まぐれな彼女は誰のものにもならない。
ハンサムな若きエンジニア、エイナール・ノールセンが
彼女に恋心を打ち明けるが冷淡に拒否され、彼は車を走らせ崖から転落。
衝撃を受けたクレールに見知らぬ男が訪ねてきた。
彼女を案内したところは最新の粋を集めた実験室であった。
ノールセンは生きていた。
その実験室では自分の歌が映像と音によっ世界中に流れる。 機械に夢中になった
彼女はノールセンにうちとけていく。
しかしノールセンに嫉妬した男によって彼女は毒蛇に噛まれて死んでしまう。
悲しみにくれるノ ールセンは「危険な実験」によってクレールを蘇らせた。
二人は真実の愛に結ばれる。
印象に残るのは80年前の映画にもかかわらず
現在見ても新鮮な衝撃を受ける画像である。
アートシネマとも呼べるこの映画に参加したアーティストは大変豪華であり
彼等の作品を堪能できる映像が連続して一作品になっている。
この映画は製作中から注目を浴び、エリック・サティやニジンスキーがセットを見に訪れたという。
◆監督 マルセル・レルビエ
「エル・ドラドオ」 「ラ・ボエーム」「ポンペイ最後の日」など。
◆美術/室内装飾 アルベルト・カバルカンティ
映画作家、美術監督
◆実験室/字幕 フェルナン・レジェ
キュビズムの作家
◆建築物 ロベール・マレ=ステヴァン
アールデコの代表的建築家
◆家具 ピエール・シャロー
20~30年代の偉大な家具デザイナー
◆衣装 ポール・ポワレ
10~30年代に活躍したファッションデザイナー
◆共同脚本 ピエール・マッコルラン
「霧の波止場」などを書いた作家
◆音楽(オリジナル)ダリウス・ミヨー
ジャン・コクトーとも縁が深い「6人組」の一人
1972年 スイス映画 ダニエル・シュミット監督 「今宵かぎりは…」
年に一日だけ、召使のため主人と主従関係が入れ替わる祝祭の日。
召使は食卓につき、貴族は晩餐の準備をする。深夜12時までの宴である。
この映画にストーリーはなく、この日のため、館に来た旅芸人が披露する劇中劇で映画は進行する。
「ボヴァリー夫人」ラストの臨終のシーンや、
サンサースの「白鳥」の音楽で踊る官能的なサロメ、それを見る男と女の噛みあわない恋、
女の歌う今宵の愛などの、一幕もので場面をつなぎ、その合間に主従混合のシーンが入る。
台詞はわずかにあるものの、感情を排した映像に、宴の華やぎはなく、
沈黙的であり、全体を退廃でつつむ陶酔の世界である。
今宵こそは 与えておくれ 希望の光
今宵こそは 見せておくれ 愛のしるしを
今宵こそは 歌い明かしたい 君のため
日本での、この映画の上映は製作年より14年後の1986年である。
シュミット監督の日本公開は「ラ・パロマ」(’74年)が先であった。