山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

変な例外2

2008-11-16 19:42:06 | 日記
「私は“晴れ女”なのよ」と断言している人がいる。
その人が、旅行などに行く日は、必ず晴れるのであって、絶対に雨にはならないそうだ。
たまに、雨でも降った場合は、同行者に強烈な“雨女”がいるのであって、
その女が原因なのだそうだ。
“晴れ女”も“雨女”の力にはかなわないということだろうか。

強烈な“雨女”さえいなければいつも晴れるのだという話を聞き、
「そういえば、以前一緒に旅行に言ったとき、すごい大雨が降ったじゃないの」と言ってみた。
そのときは“雨女”は同行していなかった。

そうしたら、その人曰く、
「あれは、雨じゃなくて、台風だったじゃないの。台風はしかたがないわ」とのこと。

は?
台風は雨ではないのか?
台風は雨天の中で例外か?

台風だって雨は雨ではないのかな~

インフルエンザは風邪ではないという人と
台風の大雨は雨天ではないという人
なんか、変だな~

変な例外1

2008-11-16 19:32:59 | 日記
絶対に風邪をひかないと自慢している人がいる。
ずっと皆勤賞だったとか言っている。
でも、そのひとはインフルエンザで何日か休んだりしている。
しかし、ある学校では、インフルエンザは普通の風邪ではなく、
伝染病で避けるのは不可抗力であり、
さらに他人に移してしまうと大変なことになるから
出席停止となって、それは風邪で休んだことにはならないそうだ。
幼稚園ではそんなこともあったけど、学校でもそんなところがあるらしい。

つまり、この人は、風邪で休んだことはなく皆勤賞だけど、
実際にはインフルエンザで休んでいるのだ。

一方に、インフルエンザにもかからないで皆勤賞だった人もいるわけだが、
インフルエンザを例外とするなら、その差は「ない」ということになる。

そんな人が、会社員になって、
インフルエンザの診断書があれば会社は欠勤にはならない
などと思ったら
大間違いだよ。

欠勤は欠勤なのさ。
その分を有給休暇とは別枠の
特殊な有休インフルエンザ休暇にするという会社も
あんまりないと思うよ。


おかしいよね

2008-11-16 13:22:13 | 日記
人はたまたま自分に向けられたわりあてに何か特徴があると、変なかんぐりをしてしまう。

たとえば、ロッカーの位置が一番奥になったとか、一番入り口になったとか、古かったとか新しかったとか、そういうことはたまたま起こった可能性が高いのにも限らず、どうして私がここなの?などと思う。

そうかと思うと、他の人は、自分の席はどうして窓際なの?、壁際なの?、おちゃ台のそばなの?、出入り口のそばなの?上司の前なの?○○さんの隣なの?社長からパソコンが丸見えの席なの?人の通り道なの?プリンターのそばなの?とそれぞれに気にする。

私に会社やめろって意味?私が信用できないの?私目をつけられてるの?私にお茶くみをしろと?などと様々な詮索をしている。

どうして私の椅子は古いの?
なんか私のパソコン変なんですよね。
私のマウス調子わるいんですよ。 等等。

そんなことを耳にして、な~んだ、いじけ虫に限らず、自信満々の人まで、みんなそんなことを感じてるんだなと思ったことがある。

先日、年末調整の用紙が配られた。
ところが、私のところには配られていない。
しばらく待ってみたが、相変らず配られない。
私を除外する気か~~~?
と思い、総務に催促メールを送りつけようと思いきや、

ありましたありました。
書類入れの下のほうにうずまってた。
な~んだ、ちゃんと配布してくれてたんじゃない。

思い込みと被害妄想に気をつけよう。

株の講座

2008-11-16 10:44:58 | 日記
先日、株についての講座というものを初めて受けてみた。
内容は「株主優待」に関するものだ。
以前、衣類の会社の株を持っている知人が、その会社から商品券が何万円分も送られてくるなどといっていて、それだけでも得だと言っていた。
そこで、今回、たまたまそんな内容の講座が夜開かれるので、どんなものか参加してみた。

たとえば、人気一位の「ダイドードリンコ」は、100株以上持っている人に、年に2回3000円相当の自社製品が贈られる。ちなみに昨年のある時の株価4580円で計算すると、100株買うには、45万8000円必要ということになる。そのほかに、証券会社への手数料とかも必要になるだろう。
他に人気のある会社の例としては、マクドナルドは食事優待券1冊、全日空では搭乗割引券、オリエンタルランドではディスニーランドパスポートなどがある。
株主優待を実施している会社は上場企業の中の4社に1社の割合となっているそうだ。
どうせ買うなら株主優待のある会社のほうがいいなと思う人が多いだろう。

結論的には、株主優待として得られる特典は、銀行の利子よりも良いようだが、株が下がったり、最悪の場合は株券が紙切れになってしまうこともあるから、リスクは大きい。
株主優待だけを目的に株を買うというわけにはいかない。
単に、優待だけを望むのであってリスクを避けたいのなら、懸賞に応募するほうがいいかもしれない。

しかし、株を買うということは投資だから、社会貢献ではある。
株は博打と同じだなどという人もいるが、競馬やパチンコなんていうものは、本人が楽しむことにお金が使われるだけである。自分が当たって儲かったところで、人が外れて損をした分がこっちに回ってくるだけだ。
宝くじも同じであり、100万円もくじを買ってたまたま当たったところで、自分が得をするだけであり、外れたところで、あたった人のところにお金が移動するだけだろう。

よく宝くじを何十万円分も買っている人がいるが、株を買ったほうがよほど意味があると思える。自分が損をする結果になっても、そのお金が株式会社の事業のために有効に使われるからだ。
たとえば医薬品の開発を応援したいと思うのであれば、製薬会社の株を買うなどということができる。たとえ株価が上がらなかったとしても医薬に貢献したということになるわけだ。
宝くじだったら、自分の出したお金が、1億円の宝くじを当てたどこの馬の骨ともわからない人間のものになってしまうだけである。

とは言え、1枚300円の宝くじを10枚買うのも苦しいような人間が、なけなしの貯金をはたいてリスクの高い株を買うということはなかなかできるもんじゃない。
ということで、私の場合、たぶん実行には移らないだろう。

株主優待は商品や商品券や各種割引などの各種特典が得られるが、やはり持ち株の量に応じるため、冒頭に書いた商品券が何万円分も送られてくるという人は、何百万円分もの株を所有しているのだろうと思えた。

「知って得する株主優待」という冊子をもらったが、それはあたかも普通の商品カタログのようでさえあり、何がもらいたいかな~、飲み物がいいかな、ビールがいいかな、お米か?優待券か?などと、お歳暮を選ぶような気分で楽しんでみてしまうのだが、その会社の株を買うとなると、株価はこれから上がるのか下がるのか、社会状況はどうなっているのか、この業界はどういう見通しなのか、どんなリスクがあるのか、いつ買っていつ売ったらいいのか、などということを吟味しなければならないわけで、もうわけがわからなくなってくるのだった。

「ノエル」という不動産関係の会社は、バスタオル・ミネラルウォーター・観葉植物・お掃除ギフトセット・ハウスクリーニングなどの中から持ち株数に応じて何点かを選択してもらえるということで、主婦には人気だったようだ。会社としても、業績を上げており、黒字だった。にもかかわらす今年のリーマンの倒産に関連して、この会社は倒産してしまったという。このようなことが現実に起こっているので非常に難しい。

受講者の中には、具体的にそのようなことを見据えた上で、良さそうな株を選び出し、証券会社の人に相談や質問をする人などもいた。
すごいなあ~私にはわけがわかんないよ、と思うばかりだった。

株式についての説明は簡略なものだったので、あんまり勉強にはならなかったが、参加してみて多少の新知識を得ることができ、それなりによかったと思う。
今回受けたのは、あくまでも株についての公の講座であって夜に開催され、証券会社の営業活動ではなかったが、結果的に半分は証券会社の営業活動のようでもあった。
証券会社による株についてのセミナーなどは多々行われているが、平日の昼間行われることが普通のようでなかなか参加する機会が得られない。夜や休日にもこういう講座を開いてもらいたい。

何をするか

2008-11-16 09:23:38 | 日記

休日に雨が降ることが度々ある。
休日には、区民体育館に行ってエアロビクスやシェイプアップ体操をしようと思っているのだが、天気が悪いとつい億劫になってしまう。
文化の日の連休に空振りをくらって以来、天気が悪かったり、他の用事にかまけて体育館には行っていない。だから今日こそは行こうと思っていたのだが、なんとなく気が乗らない。
運動も3日坊主だったか。

いやなことでも我慢してやる。いやなことは無理にはしない。
このどっちが自分にとっていいことなのか、私は迷ってしまう。
いやなことをしないでいたら、根性などというものは身につかないし、何も達成することはできず、すべてが3日坊主で終わるだろう。
そして、運動をしなければ、メタボへの道を加速度を増して突き進むのみかもしれない。

しかし、たかが趣味の世界で、いやなことを我慢してやるというのは、どれだけ意味のあることだろうか。
気が乗らないことを無理にするなんて、ストレスがたまるし、精神衛生上よくない。
1日やそこら休んだところで、急激にメタボになるわけではなかろう。

あっ、しかし、もうすでに2週休み、今回で3週目ということになる。
これだから、やはり単発参加型ではなく、数か月分の高額の月謝を払い込んで自分を縛り付けてしまう方法でないと、人間は物事を継続することができないのではないだろうか。

単にメタボを回避するためではなく、
スマートなひきしまった美しい身体になりたい。
そういう理想像と夢があったんじゃなかったっけ。
行けばきっと気もちいいよ。
でも、家の中でぬくぬくごろごろしていたいなあ~。

・・・迷いは続く・・・


容疑者Xの献身

2008-11-16 01:25:37 | 日記
今日は映画を見に行きました。
印象に残ったのは、堤真一さんと松雪泰子さんでした。
松雪さんは、悪い夫と別れて女手1つで中学生の娘を育てている母親という、松雪さんには珍しいような役柄でしたが、一生懸命お店をやりながらささやかな幸福を求めて生活している母親の雰囲気をすごくよく出していて、適役だったと思います。生活感があり苦労している中でも、その華奢な体とさわやかな表情がどきっとするほど美しいです。あれは松雪さんじゃなきゃ出せない雰囲気ではないでしょうか。
また、堤さんですが、よくもあれだけ、人間としてすたれた雰囲気が出せるものだと、やはり演技力に感心しました。他のドラマなどで、堤さんの日頃の格好良さを知っているだけに、人は落ちぶれると、あんなに格好いい人でも別人のようになってしまうんだということが連想でき、すごい実感です。しかし、100%落ちぶれきっているわけではなく、数学の才能と松雪を愛する部分で、光り輝くものを持っているという人間像をよく表わしていました。俳優ってすごいですね。
それで、この2人のオーラがすごくて、福山雅治も確かに素敵なのですが、福山と柴崎コウよりも、堤と松雪が主演だったように思えます。
でも、福山雅治の湯川学は、物理のことしか興味がないはずだったのに、この作品では、愛を察するということでも、すごく鋭い能力を発揮し、友情という点でも申し分なく、人間的な部分を味わわせてくれました。
ただ、ストーリー的には、犯行日時のトリックのために、別の殺人をするという部分が、かなり現実ばなれしていて変だなとは思いました。

人の一生

2008-11-16 00:34:17 | 日記
人の死について語るのはちょっと勇気がいるが、いろいろ思うことがある。
今日は、「象の背中」という録画してあったドラマを見た。
働き盛りの会社員(部長)役所広司が、気付いたときはすでに肺がんの末期であり、ぎりぎりまで仕事を続け、会いたかった人に会い、最後はホスピスで家族との貴重な時間をすごして、ついに亡くなるというストーリーだった。そこには、何ら特別な展開があるわけでもなく、もし不治の病にかかったら誰もが似たような経緯をたどるような出来事が描かれていた。
それでも、自分の死期を悟り、身辺整理をして、有意義な最後の日々を過ごせたことは、良い死にかたをしたということができるだろう。
やりたかった仕事もあきらめなくてはならないが、仕方のないことである。そうやって亡くなっていく人がたくさんいる。

生まれてくる赤ん坊がいっぱいいて、子どもが生まれるのが日常茶飯事の出来事だとしたら、亡くなっていく人がいるのも日常茶飯事の出来事ということになる。しかし、そうだとしても、人が亡くなるということは、受け入れがたい現実である。
でも、やっぱり生まれるのが自然ならば、亡くなるのも自然なのだと思わなければいけないし、生まれたからにはいつか死ぬという覚悟が必要だと、私は思う。
人が死ぬことも自分が死ぬことも怖くてしかたがないからこそ、そういう覚悟が必要なのだと思っている。

人によって亡くなる年齢は様々である。でも、亡くなった人は、どんなに若くても、亡くなった時点で、生きている人よりも人生の先輩となってしまう。
生きている人は、死を体験したことはないが、亡くなった人は、死を体験したのだ。
だから、そこでもう仏様という、目上の存在になるように私には思える。

自分はどんな死にかたをするのかと思うと、恐ろしい。病気になって苦しんだり、痛みに耐えたりするのかもしれないし、どんなことになるかわからないが、そういう経緯を通過して人は亡くなっていく。それは、恐ろしいことで、自分にはとうていそんなものに臨む勇気も覚悟も持てそうにない。しかし、人は自然に生まれできて、きっと生まれるときも苦しかっただろうが、立派に生まれてきたのだから、亡くなるときもきっとそれを立派にやり遂げるはずだ。それが人の人生だ。いや、人だけではなく、動物や虫などの生き物でも同じだ。
たった1人で死のうと、身内に見守られて死のうと、ちゃんと一人前に眠りにつけるだろう。

このあいだ、夫の叔父が亡くなった。親戚が少なく、夫も仕事で出られなかったので、私が告別式に参列した。叔父を見送ったのは20人ほどだった。血縁関係のある者もいれば、私のように血縁的には他人の者もいた。しかし、私は夫と結婚したことによって、その故人と近い親戚関係になり、叔父の亡骸を見送ることに遭遇したのだ。その叔父に会ったのは2回くらいで、直接に言葉を交わした記憶はない。
しかし、遺影は、夫の母の弟だけあって、亡くなった義母に面影が重なる部分もあり、まるで義母の葬式のときのように悲しかった。

そうして、思ったのだ。叔父はもう80代半ばだったから、同年齢の参列者も少なく、叔父より若い人ばかりだった。私がそのような年齢まで生きられたとして、誰が参列し、私の亡骸を見送り、花を手向けてくれるのだろうか。
年の順で行くと、私の夫や姉夫婦も亡くなっているだろうから、自分の娘たちと、甥姪だろうか。
今回のように甥である夫が出られなければ、その配偶者ということになるから、私が何十年か後に亡くなったとき、甥や姪ではなく、そのつれあいのあまり会ったこともない他人が私を見送ることになるのかもしれない。すると、私は80年もこの世に生きて老化した体をその人の前にさらすことになるのだ。
しかし、それもおそれることはないし、とくに避けたいことでもないのだ。それも何かの縁だろう。ありがたくそういう状況も受け入れよう。人の亡骸を不謹慎な気持ちで見る人間はけっして存在しないのである。

お葬式は3人の和尚さんがお経を唱えてくれた。しかし、どんなに和尚さんが偉い僧であったとしても、とても亡くなった本人には及ばないと思った。和尚さんはけっして死を経験したことがない生身の人であるからだ。そして、亡くなった人が高齢であれば、人生経験もたくさんあったわけである。そうしたら、和尚さんなんかは若造である。
和尚さんたちは、私がそんなことを思う以前に、そのようなことはちゃんと自覚済みなんだろう。ある人が亡くなり、ある人がお経を唱えるという組み合わせも、何かの縁なのだろうと思った。

死んだ人にはもはや意識がないから、誰がお経をとなえようと誰が参列しようと関係ないことだが、生きてるほうには経験として意味があることである。

人生を全うした人々を通して、教えられることはあまりにも多い。