日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

9月も終わります! 早かった一か月でした。

2021年09月26日 | Weblog
 こんにちは。
 風が少しずつ、涼しさから寒さに変わっていくような毎日が続いています。
 「暑い、暑い」といっていたのはつい一か月前ですが、お彼岸が過ぎてすっかり秋らしくなってきました。秋風が吹き始めたようです。雨も冷たく感じるようにもなりました。コロナ禍で、今年もこの時期やる運動会も中止になるのでしょうか。   
 東京五輪・パラリンピックは出来たのですから、もうちょっと国や教育員会が熱心にやってみれば運動会もできるのではないかと思えてしまいます。国のイベントより身近なイベントです。
 今月末に「緊急事態宣言」も解除されるようなうわさが流れています。これまでさんざん悪者扱いされた、飲食店や若者たちにもようやく生活がもどってくるのでしょうか。ほんとうにそうなるのでしょうか・・・。
 いま国がやっていることは、コロナ対策以上に総裁選になっているような気がします。それも、あいかわらずの弱者のお金をいかに減らすかのような政策が取ら出されています。そのひとつに「年金を減らす」ということも少子高齢化によって当たり前のように語られていました。

 その前にやることがたくさんあると思うですが。なかなか、高齢者や児童などに対する社会保障や教育予算はまわってこないようです。それどころか、あいかわらず、「軍事予算」は増える一方です。「脅威」をあおり、気づいたら、国と一緒にどこかを攻撃しているような気がします。まさに、暴力装置をたくさん準備している国の未来は明るいわけはありません。
 いまいちばん大事なことは、コロナ禍の対策も十分にやることと、コロナ禍後の対応が大事なのではないのでしょうか。
 だれが総裁をやってもこんな状況のなかでは同じだろうと思えてきます。とくに、これまでの問題を誰も明らかにしようとしていないことから、そう思えます。もうレースは、決まっているようなものでしょう。世襲制のほまれ高い人が、ここでも総裁という名誉を受け継ぐことでしょう。そんな気がしますけれど、どうでしょうか。


 最近は年なのでなにもなければさっさと寝てしまうことが多くなった。若かりし頃は終電で帰ることもしばしばだった。家で寝ている時間より、会社にいる時間が多かったこともあった。それも若さということなのだろう。電車で眠り込んで目的の駅までくればなんとなく疲れは忘れていたのだった。
 とはいえ、今そんなことをしたらきっと心臓が悲鳴をあげてストライキを起こしてしまうのだろう。最近、私のなかでは「年を取るという事は万事眠ること」だという法則が確固としてつくられている。

 ところが、深夜(丑三つ時)、電話の音には驚く。まず心臓がバクバク音を立てているように脈を打つ。そんなことだから、今、深夜に誰かの訃報聞いたら、私自身も危ないかもしれないだろうと思う。
最近、隣の若者の声が時々聞こえる。なんとも怪しげな会話を聞いていると心臓に負担をかけているようになった。それも、まさに丑三つ時あたりに、笑う声や合いづちをしている声が聞こえて来る。深夜でなければまったく耳障りなことはないが、時間が時間である。仕事のことや遊びの電話であろう。笑う声が聞こえるのだが、こちらとしては少しも笑えない心境のなかである。

 いったいなにごとだろうと思いつつ、隣のベランダから聞こえてくる声の主を想像する。あーあっ、隣の息子だ。大学を出てどこかに就職できたと聞いている。
 集合住宅では、だいたい子供のときからの顔が浮かぶ。そしていつの間にか、父親よりも大きくなっていると、どなたでしたっけ? と考えてしまうことがある。それでも、だいたいの子ども時代の顔は浮かんでくる。今は栄養がいいのだろうか、ぐんぐんのっぽになっていくその息子をみたことがある。時々、挨拶でもかわすようなことがあると、私は見あげているようになっている。

 携帯電話も成長していて、いまでは、いつでもどこでも電話が可能となった。昭和一桁の人にとっては想像もつかないことが起きてしまっていたことだろう。昭和世代中間期の私にとっても同じで、やっとスマホを持って使いこなすというより、最低限の電話、メール、カメラくらいで精いっぱいになって機能を追いかけている。
 そんな便利さによって、夜中のベランダでも電話が可能となっている。
 このことを恨んだところで仕方があるまい。自分でもけっこう世話になっている。
 問題は、真夜中の電話である。
 昨年からコロナ禍の中、「緊急事態宣言」テレワーク、人と会話するのこともはばかられる場所が多くなった。深夜、誰もいないところで大声をあげたくなる気持ちもわからなくはない。だからといって、新宿の歌舞伎町ではないのだ。灯が煌々として場所でもあるまい。そんなに話したいなら、多摩川の土手にでもいってたき火を囲み、話すといい。誰もとめはしない。せめて、暗くなった夜くらいは何もかも忘れて眠っているところ、邪魔はしないでほしいと思う。
 形態も身長もうなぎのぼりに成長するわりには、人のこころの成長がまったく追いついていないのだろうか。のっぽの息子も携帯電話(スマホ)もなにか置き去りに成長ばかりの時代になった。バタンと窓をしめたとたん静かになった。
 そんなことを思いつつ、浅い眠りのなか、朝はとてもつらかった。



 9月は早かったー。
 連休が多い月だと楽しみにしていたにもかかわらず、早かった・・・。
 そう思えてしまうのは、休みのほとんどが自分の予定通りがものごとがすすまいないことと、他の用事が多かったこともあったのだろう。
 やっと、月刊誌の仕事が終わったとたん、お彼岸、理事会などもあったのが気持ちの整理もない中ですすんでいったこともあったのだと思う。
 ふり返ってみればどれも、「めんどうだなあ」と思い終わってしまうと、いろいろと考えさせれて楽しいこともあり、プラスマイナスゼロでよかったような気がする日々だ。
 一つに、お彼岸後の墓まいり。連休中にいってきた。コロナ禍ということもあって、娘がレンタカーで同行してくれたこともあったのだろう。
 帰りによったサービスエリアでのこと。
 コロナ禍ということで、もっと自粛しているのかと思ったがとんでもなかった。たくさんの人に驚いてしまった。それでも、久しぶりのドライブなどを楽しむ気もわかるような気がする。「コロナ感染に十分気をつけて」とはいうものの、実際の生活では本当に感染しないには不十分だろう。それでも、「気をつけている」ということを形にしていることで、ちょっと安心しているだけなのだろう。これは、誰にでも感染しないは絶対にないだろう。それでも、出かけてくることが大事なのだろう。なぜなら、そこで感じることが、生きている証をいっしょうけんめい考えることだからだろう。そんなことを思えた一日でした。

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 今月、通勤電車で読んだ本はけっこうあった。それでも、なかなかまとまらず日々が過ぎていった。(簡単に・・・)
 『氷壁』(井上靖)、『山の帰り道』(沢野ひとし)、『誤植読本』(高橋輝次編)、『全盲の弁護士 竹下義樹』(小林照幸)、『狂牛病』(中村靖彦)と読んだ。面白かったのは、『全盲の弁護士』と『狂牛病』だった。
 『狂牛病』では、新型コロナウイルスの感染がなぜでてくるのかわかったような気がする。食の安全などというまえに、私たちの身のまわりの食がどうなっているのかが問われる本だと思った。
 『全盲の弁護士』では、なんにつけ一つの仕事を仕事として成り立たせることがいかに大事かわかったような気がする。それが、どのように自分の成長につながっているか考えさせられることになっているかということを言っているような一冊だった。(まとまらず・・・ここまで)
おまけ
「れんしゅう」まどみちを
今日も死を見送っている
生まれては立去っていく今日の死を
自転公転をつづけるこの地球上の
すべての生き物が 生まれたばかりの
今日の死を毎日見送りつづけている
なぜなのだろう
「今日」の「死」という
とりかえしのつかない大事がまるで
なんでもない「当り前事」のように毎日
毎日くりかえされるのは つまりそれは
ボクらがボクらじしんの死をむかえる日に
あわてふためかないようにとあの
やさしい天がそのれんしゅうをつづけて
くださっているのだと気づかぬバカは
まあこのよにはいないだろいうということか


 9月も終わります。
 何か駆け足で過ぎていったように思えます。コロナ感染が激増した月でもありました。職場でも、感染者や濃厚接触者も出た月でもありました。月末になって、感染者の自宅待機も終わり顔を見せるようになって安心できるようになったものでした。そんな光景をみて、少しずつ減っているようですが収束にはいまだ見えないのが現実でしょう。
 「緊急事態」は、考えてみれば、いまの日本はいつでも「緊急事態」のなかいるようなものだと思えました。ただその事態をつくっているのも政治家なのでしょうから。まさに人災でもあるわけです。
 自然災害、放射能、コロナ・・・と。そういうえば、福島第一原発事故での「緊急事態宣言」はいまでも解除されていないですよね。
 コロナになって生活が変化したということをよく聞きます。
 きっと、これからも生活は変わっていくことになるのでしょう。変わらないのは政府の対応策でしょう。総裁選でどれだけこれまでのマイナスイメージを払しょくさせようとしていても、その本質は同じだということでしょう。
 変わるべきは、私たちよりも総裁選で語っている人たちかもしれません。

 9月になって「誕生日おめでとう」という一方で、知人・友人の安否が伝わってきます。そんななかで連れ合いがなくなった人、もう完全に仕事をリタイヤした人などの話もついてきます。「おめでとう」という反面、少しずつ人の命も消えていく世代にもなっていることに気がついきます。
 日々のこもごもに「めんどうだー」と言いつつ、生きていることを気づかさせてくれる人たちは大切な隣人です。
 まだまだ、めんどうなことがたくさんありそうです。それでも、結果として「楽しかった」ことに思いを巡らす日々にしていきたいものです。 
 来週は10月です。今年もあとわずか・・・なんて。
 また明日からボチボチいきたいと思います。
 では今週はこの辺で。
読んでくれた人、ありがとうございました。

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