こんにちは。
朝晩が少し涼しくなりました。虫の声もよくきこえるようになりました。
天気予報をみていたら、秋はとくに今ごろは台風がおおく、梅雨のこところよりも雨が多いそうです。
夾竹桃のにおいがどこからかしてくる季節になってきました。今年もあと3カ月ばかり、と思うとこの一年いったい何をしてきたのだろうかと思います。忙しさに愚の日々を送って、とうとう10月という感じしますが…。
今週は「食欲の秋。芸術の秋。スポーツ秋」といいますが。どんな秋を送っているのでしょうか。
さて、今週も東京都の問題がニュースになっていました。「豊洲問題」「東京五輪問題」と。いったい、いままで都議会は何を決めてきたのだろうかと思うほど、そのいい加減ぶりには驚きます。とはいえ、その議会をつくる政治家を選んだのは都民です。いったい、何をどうしたかったのか…。
まさに、迷宮にはいりそうなことが多い都議会には驚きです。
今週、19日の「敬老の日」の代休をつかって、30日(金曜日)に映画をみてきました、平日ということもあってか映画館はすいていました。苦手な、チケット購入の操作もあわてずできました。チケットの自動販売機は、お客さんがいっぱいいる時などは、後ろの人が気になり何回もやり直しをするときがあります。とっても、嫌いですね。
ゆっくりやればできるのですが、人で混雑しているとやりにくいですね。昔は、「〇〇一枚、面白い?」で買っていたいた時代から今は会話もなく無言でことがすんでしまいます。時代ですかね…。
でも、ありがたいのは60歳以上は、通常1800円のところ、1100円で見られることです。特別な映画以外はほとんど1100円で見らえることは、いいですね。
【内容】
ある役所に勤務する定年まじかの市民課長が主人公の話。腹の調子が悪い日々を送ってた。病院にいって検査をしてもらったところ、軽い胃潰瘍と診断される。検査を待っている間にある患者から病気の進行について話を聞く。その内容とは、胃潰瘍と診断されてからの医者のいうことについての注意だった。そして、その話の内容から自分の胃潰瘍は「胃がん」であることを確信してしまう。余命をどしたらいいのか悩む。
息子との回想シーンが思い出される。これまでの生活をふりかえる。考えれば考えるほど悩みが深刻になっていく。どうしようもない自分の命を捨てばちな生活がいやしていく。ある日、市役所で働いていた若い女性が訪ねてくる。辞めたいので課長のハンコが欲しいという。女性の話をきくうちに彼女に生きている楽しさを見つけようと、役所を休み会い続ける。しかし、女性はいつの日か、おじいさんの付き合いを「おかしい」とさげすむのだった。自分が役所をやめて小さな町工場に働く意味を課長に話す。「こんな小さな工場でもだれかの役にたっていることに少しは楽しさをみつけていると」。
そんな会話から課長は自分のできることを思い仕事に戻っていく。
いぜんから市民から嘆願されていた公園造りの要望を取り上げようと頑張る。書類をかいて何度も公園をつくるのに必要な部署に足を運ぶ。さらには、暴力団にも脅されるが屈せず足を運ぶ。
そしてついにその計画が実を結び公園ができがる。今まで雨がふるたびに水たまりになって、不衛生だった場所が遊具もでき子どもたちが元気に遊ぶ場所に変わったのだった。
課長は病気で死んでしまう。その通夜の日、仕事仲間が集まり課長の話をする。
「なぜ、こんなにがんばっていたのか」みんなで話す。いままで気がつかなかった自分たちの仕事の大切なことを思い出す。
しかし、仕事が始まって役所の様子は依然として前と同じで、市民の要望に遅々とすすまぬやる気の見えない日々が続く…。
【感想】
ぼくの周りも「がん」と診断された人は多い。ある人は肺がんだったり、膀胱がんだったりと多いことに気づく。いまでは「がん」は治療がそうとう進歩していることがわかる。それでも、ぼくの知識の中にでは「がん=死」ということは正直なところではないかと思う。『生きる』をみていったい「いきる」ということはどういうことなのだろうと考えた。
「死」は考えること。「生」は行動すること。
映画代が安い…とばかり喜んでいられない年齢になってきたが、かといって「死」は考えていはいない瞬間だ。このときは「生」を感じているだけなのだろう。そして、「ぼくの生きるってなんだ」と考え行動することでその一瞬一瞬を生きているのだろうと思う。
日々の生活は自分の思うようにならない。それが、映画の通夜のシーンで課長のやったことについて発奮して頑張ろうと思ったのだろう。そして、日々の生活での実際の仕事にもどると、またいつものように遅々と進まぬ日々をつくっているのだろうと思う。
とはいえ、それがあったから課長も自分のやるべきことに気がついたのだろう。そのことがまさに課長にとっての「生きる」という意味だった。誰しも生きる意味をもっているだけではない。あるとき、何のきっかけでスイッチがはいり、本当に自分は生きたという証明をどこかでつくればいいのだと思うのだ。そのときは、「生」など考えてはいないだろう。
大事なことは、「生」をつくろうとするスイッチをみえつけるチャンスを多く持つことだと思うのですが、なかなかない。だから、人は悩んだり楽しんだりして生きているのだと思う。そして、ときどき「死」ということを考えて大きくなっていくのかもしれない。
『生きる』はそのスイッチの一つになったのだろう。
時代は「生きづらい」ときくのですが、この映画はそんな時代に見てみると少しはヒントになるような気がしました。大きなこと、小さなことということではなくて「自分のとって」ということがキーポイントです。
今回、やっぱり映画は映画館でという気持ちにさせる。
もう一度みたい映画…。DVD テレビで放送されますが、余計な情報がいっさいない映画館での映画はやっぱりいいものだとつくずく感じた一日でした。最近は本離れと同じように映画館離れといわれているようですが、できれば映画館でじっくり見れみるといいものは感動します。そんな気がします。
『怒り』という映画も同映画館でやっていたので家族に誘われて見てきました。
八王子で起きた、「夫婦惨殺事件」に端を発して事件を追う刑事たち。その事件に何らかの関係をもつ若者3人。それぞれの場所でアウトローのように日々を送っている。一人は借金取りに追われて漁港で、有名企業のサラリーマンの一人はゲイの相手をする孤児院育ちの若者、さらに沖縄の無人島で旅をする若者。
事件は、容疑者と関係のあった取り調べから、少しずつ犯人の様子があきらかになっていく。警察ははっきりしてきた犯人の顔を公開する。テレビ流れたその様子を、若者3人が住む生活の中に入ってくる。周りはそれを疑うもの、またそのことから逃げるもの、さらには追われても逃げていくもの…と流れていく。
とうとう、犯人は自分と同じようなシーンをつくり刺されて死んでしまう。そして残った二人の疑問に持たれた若者は、さらに逃げていく。そしてその二人の関係者は自分のこころに「後悔」をつくってしまう。
映画がおわってとても疲れた映画だったように思えた。
人はなんとももろいものだな、と。しかし、それを支えるのももろい人間なのだから仕方がないよ、と思う。
そして、最近の犯罪の事件のありかたを象徴しているような感じもした。日々の生活のなかに、一瞬にして犯罪が、前後の動機無き殺人事件もあるのかもしれないと思えた。
犯罪もデジタル化したように、顔がみえない時代なのだろうかとも思えた。
休みの日は、余裕があるからでしょうか「これもやりたい。あれもやっておきたい」ということは仕事でも遊びでも同じです。しかし、これが実際の生活になってしまうと、日々の生活に追われて忘れたように過ごしているんだろう、と思います。
忙しくなると「忙しい、忙しい」ということを連発して日々が過ぎていくような気が済ます。とくに月末にはもう走るように日々がすぎているように思えます。なぜ、そうなるのかなあ…と思っています。
だから、のんびり動いているものをみていると「じゃまくせえ!」と思えてしまうのかもしれません。本当は、そののんびり動きたい自分がいてほしいのではないかと思うのです。そんなことが重なって、振り返る日々が少なくなるときっとノイローゼになっていくのでしょうか。教師にノイローゼ患者が増えるという記事に遭うのは、振り返る時間が出来ていないせいではないかと思います。映画『生きる』のばかで、「ひまを忙しく感じて過ごしている」ようにも見える役所生活がありました。今はこんなシーンは「古きよき時代」ではないかと思えます。
そう思うと、立ち止まって自分のいる場所を余裕をもって見つめなおす10月になってくるののではないかと思います。
10月。ぼくにとってはスポーツの秋だろうかなあ。休みの日は、できるだけ体を動かしていたい気がします。体が動くと脳も動きますから。
先週の休日出勤(9月19日「敬老の日」)の代休をとっていた日々も終わります。多摩川散歩もできずちょっと残念です。映画館にいけば多摩川は遠のきます。両方ともやろうと思う年ではありませんから仕方がないあのですが…。
天気がよければ、山歩きもしたいものです。
今週はこれで失礼します。やっぱり映画は映画館でみるのが一番、ということを学んだ休みでした。
読んでくれた人、ありがとうございました。
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