日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

雨あがり、季節は秋に近づく

2016年09月25日 | Weblog

 こんにちは。
 雨ばかりの日々が続いています。久しぶりのお天気で気落ちもちょっとは晴れてきたような二日曜日でもあります。台風も、季節通りやってきましたが、最近は強烈な被害をもたらしているようです。社会も自然も人間に何かを警告しているような気もします。
 多摩川を散歩してると自然のなかから生まれた生き物たちが季節を運んできます。
 川面にトンボのつがいが交尾をしながらたくさん飛んでいました。二匹が迷ううでもなく、縦に横に、実にバランスのいい感じで飛んでいました。子孫を残すために、まさに絶妙なハーモニーで飛んでいるような気がします。遠くではモズの声もしました。さらに、遠くにたなびく煙があればまさに秋の景色…なのでしょう。
 季節は、秋に急ぎ足というかんじでしょうか。田んぼでも稲が実をつけていました(東京でも郊外では田んぼや畑もあります)。







 「今月の読書」の月末になりました。1ヵ月は早いものです。としでしょうか。なにをどう読んだのか…という記憶が月末にはうすれてしまっているようです。読む前に「なぜ、読んだ」のかがいちばん大事なことだと思うのですが、月末にはすっかり忘れているようです。興味を持った理由がどれにも必ずあるのだと思うのですがノートにとっておかないと、99パーセント忘れて生活しています。
 そんな夜読み方ですから感想も、時間がたったときになってしまいます。読んだときの「熱い」思いもすでにうすれているような気がします。それでも、時間がたってまた、みてみるときっと違う感想があるのでしょうか。それは、それできっといいのだと思います。



■p29 そんな時代に老後を迎える私がこれから心がけねばならぬことは、いかに老後の孤独に耐えるかの修行である。若い世代に理解や同情を求めて「可愛い老人」になるよりも、私は一人毅然と孤独に耐えて立つ老人になりたい。それがこれからの目標であり、それを私の人生の総仕上げとしたい(佐藤愛子・覚悟をきめる)

■p96 我々が空想で描いてみる世界よりも、隠れた現実の方がはるかに物深い。また我々をして考えしめる。これは今自分が説こうとする問題と直接関係ないのだが、こんな機会でもないと思いだすこともなく、また耳を貸そうとしまいから、序文の代わりに書き残しておくのである(柳田國男・山の人生より)




 この本は再読になる。
 もう20年以上の前の本だろう。山田太一さんの本が好きで最近また読みはめてみてどこから引っ張り出した本田。今、再々度みてみようと探したがどこへいったかもうわからない。なんともだらしのないことだと思うが…。読書ノートには、人は何かを求めて生きている。若者であれ老人であれ、気づいてみると「生きるとはかなしい」ほどつらいのだ。「だから…」という自問自答を繰り返すなかから自分らしい生き方をできてくるのだろう。それが、他人からどんなにいいかげんなことであっても、本人にとっては生きるに値することなのだということを尊重しながら生きることが、何よりも大前提であることを語っているように思う。

 そのなかで人間のはかなさや悲しさを告発しているような作品を紹介していくつもの「生きる」を語る。
 



【内容】 「過去」と向き合い、記憶にとどめ伝えてきたドイツ。東西ドイツの統一、移民の増加、兵役の廃止……新たな局面を迎えてドイツはどこへ向かおうとしているか。「記憶」をキーワードにドイツの過去・現在・未来を読み解く。(大月書店紹介より)



 いつの時代も、真実を隠したい群れ、明らかにしたい群れがいる。そのどちらもしまつがわるいのは利害関係にあったときである。一方が、設け、もう一方がそれで被害を被る。利害関係がより怖いのが、その真実を忘れようとすること。さらには、無関心ということで、考えなくなってしうまうことが何よりも怖いということだろう。

 日本では、戦争被害者という一方的な意識があったり、戦争という悲劇ばかり強調されて真実が見えにくい状況が支配することあろうと思う。では、なぜそんなことが起きたのかという本質が隠されてしまうこともある。最近、教科書問題で戦争の記述なども少なくなってきているという。戦争体験者が高齢化して語りづく人がいなくなっていることもあって、戦争というものの体験者を語れなくなってなくなっているという。
 戦争は「悪」とは知識では知ることができるが、知っていることはいつか忘れることもあることを忘れてしまっているようだ。

 この本ではドイツでの「戦争とはいったなにか」ということだったのかを、忘れないようにするためにいったい歴史から何ができるのかということを問い続けた本です。とくに、戦争体験をしらない若者にむけて歴史とどうむきあって行くべきか、ドイツでの教育を紹介している。いつでも、記憶のかたすみにおいておくべき忘れてはいけない歴史教育を市民と教育者、あるいは政治家も一緒に考えていくという挑戦でもある。
 とくにドイツは世界大戦でアウシュビッツでの惨劇をどう「記憶する文化」として残すかという課題にも挑戦しつづけている。そして、二度と同じ過ちをしないために、人間ができることへの挑戦もある。
 『アンネの日記』が世界文化遺産になったように、負の遺産を「記憶する文化」に残す試みが続いていることを紹介してくれた本だった。

 日本では広島の原爆ドームがある。戦争での悲劇を後世に伝えるためのひとつの教育の手段になっている建物でもある。修学旅行などで教育の一環として訪ねるところでもある。
 読み終えて、戦争の悲劇の歴史はなにも遠い場所にあるわけではなく、もっと身近な歴史を探してみるともっと身近なものとして考え実践できるものになるのだろうと思う。
 そこから、平和とはなにか問い続けるものになるのだろうと思う。
 図書館でなんとなくとった本だった。じつに重いテーマがあったようだった。
  



 高齢化社会到来。
 となれば、町を歩けばどこにでも老人が歩いている(私もそうだが…)。
 ごくふつうの老人の仲間との一人として、失敗や喜びも生きる力として立っているのだと思う。
 この写真集は老人ばかりはばをきかす写真集。
 若い青春と呼べる時代もあったのだろうが、生きるために数々のズルもやっていただろう。それでも、いま元気に写真にすまして写っているいる老人になれた思いをそれぞれが語る。そして、最後は誰もが自分なりの顔をを持ち美しくなないけれど、生きているばねを錆びないようにして、「護るべきもの」を探してなくして生きていた。



■p38 二十歳の私は自分の性質と孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れないで伊豆の旅出てきているのだった・

■p44 頭が空っぽで時間というものを感じなかった。涙がぽろぽろカバンに流れた。頬が冷たいのでカバンを裏返しにしたほどった。




 いやなことがあったり、ムシャクシャしたりしたら旅にでたいなあ…と思っていた。旅(旅行)は見知らぬ町での自分がとても素直になれるように思う。なぜなら、道も知らぬ、場所も知らなければきっと素直になれるのだろうと思うからだ。まして、見知らぬ町での人との出会いはもっと自分を素直にさせることだろうと思う。

 『伊豆の踊子』は二十歳の学生が伊豆に旅行をしたときに出会った旅芸人との出来事を小説にしたもの。
 旅芸人をいやしくいう人、病気で苦しむ人とそれぞれの出会いを通じて二十歳が素直になれる時ではなかったのではないかと思う。
 事実、川端康成は自分の体験を踊子を通して素直にみつめ、帰っていく。
 やっぱり、かわいい子には旅をさせろ!。
 







 今週、妻の誕生日だった。○○歳である。
 結婚して30年以上になるが、まともに誕生日などはやったことはない。それでも、娘がケーキをどこからか買ってきて食べる。

 またしても歯の集中工事の時期がきたようだ。まいった。
 予約を入れようとしたら、歯の老人の無料定期健診シーズンで待たされるはめになってしまった。
 「65歳までの20本の歯を残そう」などとはすでにもう遅い…。残った歯でいかに生かしていくかがこれからの課題。
 来週はちょっと余裕が出来そうなので、仕事の隙間をみつけて通うことになるだろう。
 まいった。

 それは、今回はこのへんで失礼します。
 読んでくれた人、ありがとうございました。