こんにちは。
新緑のいい季節になってきました。吹き風もここちよい気がします。散歩道では草花がいっせいに色とりどりの姿をみせてくれる季節になってきました。
この時期を「薄暑」ともいうそうです。まさに夏に向かって、日々少しずつ薄着になっていくようすは薄暑そのものです。いまがいちばん過ごす安い季節になのでしょうか。
過ごしやすさはもどって来たのですが、あいかわらずのコロナ禍の中の生活は続いています。感染状況は減る傾向になく、とうとうこれまで4県(東京、大阪、京都、兵庫)「緊急事態宣言」から、愛知、福岡の2県が追加されて、月末まで延長されるようになりました。この状況をみれば、やはりコロナウイルスはとてもやっかいな状況は今年一年もつづきそうな感じもぬぐえません。
町ゆく人はほとんどがマスクを着け過ごしている状況はこれまで以上に多くなってくるのでしょうか。まだ、身近な人が感染したとうこところにまではなっていませんが、本当に感染したら困惑してしまいます。いったい安心できる材料はどこにあるのか不安になります。変異株のコロナも少しずつ増えている状況です。
「緊急事態宣言」を出してどうなっているのかは、今のところよくわからないのが私の感想です。ただ、宣言を出すことで、病院の負担がこれまで以上に増えるということくらいは分かります。「緊急事態宣言」だ出す第一の理由が感染者の受け入れができなくなっている病院のひっ迫状況がおもな理由なのでしょう。やることが、全部あと追い状況で、きっちりとしたコロナ感染へ対応策には思えません。だから、日々の生活の中では、なかなか自分のことのようには思えないのではないのでしょうか。
そんな中で「東京五輪・パラピンピック」の中止、延期の意見がでてきたのも今週の目だった対応策のようにも思えます。新聞にも病院では、「医療は限界、東京五輪はやめて」というコロナ対応に悲痛な叫びのような看板も報道されていました。
本当に、コロナ対応をいちばんに考えれば「東京五輪」よりは国民の生命を守るのが、国のやるべきことなのだと思います。そのことが明らかになれば、国民もその大変さを自覚して、感染対応にむかうのではないかと思うのですが・・・。
やるべきことが、何か中途半端なような対応ばかりになっているころが、感染者を増やしているようにも思えます。
大型連休が終わったようです。職場に行き、少しずつ仕事も始まりました。
いつものなら(コロナ禍ではないとき)、いまごろの職場は、地方のおいしい、お土産をいただいていたように思う。連休中に、自分の生まれ故郷に帰った人たちが、お土産自慢の一品を買ってきているような気がします。ちなみに、わたしの名物逸品は徳島の「鳴門きんとき」でしょうか。
それも昨年からそれも消えていったように見えます。この状況はいつまで続くのか先が見えないということも現実です。なんせ、国の対応もいまだのコロナ感染への覚悟もみえず、ダラダラとした対応策がつづいているようにも見えます。
今年、国会で首相が「夏の東京オリンピック・パラリンピックは、人類が新型コロナウィルスに打ち勝った証として、また、東日本大震災からの復興を世界に発信する機会としたい」という答弁をしたいたことは思い出しました。そのことから、何が何でも東京五輪をやるために頑張っている姿を思いうかべてしまいます。
一方で、その前にこれまでのコロナ対応をきちんとやってほしいという気がします。私はコロナ感染が少なくなって、通常の生活にもどっていくのなら東京五輪が中止になってもいいと思います。だから「国民をコロナ感染から命を守る証として、東京五輪は中止(延期)にします」といった方がよっぽどいいのではないかと思うことがあります。わたしは、命をかけて東京五輪を見ようとは思いません。
このままだと、日本の季節の風景や行事も忘れられていくのではないのでしょうか。そのことが、日本の文化(大げさか?)も消えいくようにも思えます。そのことが、日本の生活様式も変わっていってしうまような気がします。庶民の唯一の楽しみが年々忘れられて消えていくような気がします。これが、「新しい生活様式」というのであれば、それを守ろうとする政治のあり方も変えなくてはならないのではないのではないかと思えます。ほんとうに守るべきは、東京五輪でもなく富裕層の株価でもなく、庶民の楽しさをつくる、これまでの日常を追求し、取り戻すことが大切なことなのだなーと思います。
今週、市役所から「介護編被保険者証」が届きました。まるで、小学校に入学する一年生の「入学通知」のようでした。日本の社会保障はちゃんと機能しているんだとつくずく思えました。要は弱者に対する市の制度のようです。第1号被保険者になると介護や支援が必要になってくる身体になったいうことを自覚した通知でもありました。「介護保険料」をとられいるのであたりまえといえば当たりまえですが、これまで他人のこととしか思えていなかったことが、より身近に思えることは大事なことだと思います。
とはいえ、できれば使いたくない制度であることは確かです。それには日々の健康状態が大事な毎日を自覚させる通知のようにも思えます。それでもどうしても使う必要が出てくる状況もあるのでしょう。憲法でいう25条が国民に「最低生活を保障する権利」を国に義務付けている条項だと理解しています。国(政府)は、日本国に住み人々に税金をつかって生活を保障する義務を負う・・・ということなのでしょう。
65歳以上になっても働ければ働く場を保障し、さらにはけがや病気などで介護が必要な場合は、国民を保障しなかればならないといことだと思います。
実際はどうあれ、これは大事なことだと思います。一機何百億円もする戦闘機を買う前にこのとを第一に考えてほしい気がします。
今週「高齢者医療制度2割負担」という法律が衆院厚労委で可決したようです。これも、「介護保障」との関連もあるようです。
これまで75歳以上の高齢者約1815万人。その9割は窓口負担が1割で、3割払う現役世代よりも低く抑えられてきました。改正法案では、1割負担の対象者のうち年金を含む年収単身で200万円、夫婦で320万円以上を満たす場合、2022年度後半から負担割合を2割に引き上げる。約370万人が負担増なる予定・・・となっている(朝日5月8日付)。2割負担によって、現役世代1人の負担額は年間で300円となる見込みとなっています。
でも、大事なことは病院にいく高齢者をつくらないということでしょう。それには、高齢者の住みやすい社会をつくることが政治の目標であるのですが、うまくいっていないことを認めたようなものでしょう。要は、国は膨大な軍事予算は使うが、国民一人ひとりは自助努力をということなのでしょう。きっと、これは、2割負担を払うことが常態化すれば、もっと年金低所得者にも反映させることがあるのでは思います。
「アメリカは健康保険に加入していない人が国民の9%ほどに達している。医療費が非常に高いだけに、治療をうけることができない、健康格差の激しい国として有名である。元大統領のオバマはそれを避けるべく、民間医療保険制度でありながら国民皆保険の国になろうとしたが(オバマケアと称された)、トランプ政権ではそれをほぼ破棄してしまった」・・・日本では「なお、失業した人への保険制度である雇用保険制度は、労働時間の短い非正規労働者排除されているので、失業保険制度は皆保険ではない・・・」(『日本の構造』橘木俊詔著・講談社新書)に書かれている。
少子高齢化でも、もっと安心してうめる企業のありかたを規制したりすることを忘れて、当事者負担を強いることは政治の怠慢でもあるのではと思います。
コロナ禍のなかに変異株などの登場なので、ますます緊張感がます毎日です。一人ひとりにとっては何をするすべもなく、マスクに手洗い、密集を避けるということくらいでしょう。それでも、通勤電車は密林のように人々のマスクのなかに漂っている日々です。あとは、ワクチン頼みということなのでしょうか。ここにきて、本当に身近にコロナ感染者はいないのでしょうか。感染者であっても無自覚の人もいるときいています。もし、一人でもいたらまわりの人にPCR検査をするのでしょう。それで、職場はどうなっていくのでしょうか。
ちょっといやでしょうが、コロナ感染者がでたらどんなリスクを背負い、集団生活はなかでどんなことをするのか各企業は擬似体験をすることも大事なことなのだとも思えます。
さて、これからどうなることか。毎日通勤しながら考えることは「感染品用にと」と祈るような日々である。まさに、安心すべき時間でない。65歳で定年し、田舎でのんびり過ごしていられる身分ではないことに不安も増す。これが、私の人生なのだろうかというあきらめもある。
明日からゴーレデンウイークも終わり、どっと通勤者が多くなっているのだろう。
ますます感染へのリスクは高い、と思いつつ無事帰れることが奇跡と思わせる社会って、いいとは思わない。だから東京五輪どころではないと思う理由になっているのだろう。
今週はこの辺で失礼します。
読んでくれた人、ありがとうございました。