日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

今年もあとわずか……お疲れさまでした

2013年11月24日 | Weblog


こんにちは……。
 はやいもので、今年も残すところ1か月と一週間となりました。
年末調整の用紙を書くような季節です。
寒さも日々、本格的な冬がきています。かぜなどかからぬようにしたいものです。
 今日も朝、多摩川の散歩に出かけてきました。寒さのなか、釣りをしている人をみかけました。好きなことをしているときは、寒さも忘れるのかもしれません。人間は、寒くても、好きなことには耐えるようにできいるのかもしれません。
 だれにでもきっと、身に覚えがあるのでしょう。
 だれにとっても「遊び」は明日への英気ををつくる源になるのでしょうか。遊びに「苦労」という言葉より「楽しいがまん」といったほうがいいかもしれません。


 さて、今週いちばん世の中をにぎわせていたのは「特定秘密保護法案」が連日、国会で審議されていました。国会の外では市民、ジャーナリスト、作家、弁護士などがこの法案に反対を声明していました。よほど政府は機密にしたいことが多いのでしょうか早急に成立をしたいともくろんでいました。

 国家はたくさんの秘密をもっているのでしょう。それが市民の前に出せないのは意味があるのでしょうか。知る必要もないことは「秘密」にならないだろうし、知って初めて「おかしい」部分もわかるのだし、そのことによってより政治がみじかなものになってくるのだと思います。
 「特定秘密保護法案」では、できるだけ権力者が政治を市民から引き離そうとしてるように見えます。その結果、市民が内容にかかわらず、命令されるままに政治が機能するような恐ろしいイメージが浮かびあがります。

 ましてそうなると、ジャーナリストたちが命がけで集めた真実を市民に報せることができなくなってしまうのではないかという懸念もおきてきます。私たちは、権力者が税金などどうやってをつかって政治をしているのかということなど知るためには、新聞やテレビなどいちばん身近な報道でしか知らされませんし、情報を入手できる労力も立場にもありません。それを、なくそうなどというのは、やはり「オカシイ」法律である…といわねばなりません。

 新聞には「治安維持法の再来」などという見出しもあります。究極にはそうなるのでしょうか。いま、まさに、国は市民にむかって情報の「鎖国」をつくろうとしているように思えます。知る権利が犯罪になってしまう……ということはなんとも創造しただけで恐ろしい気がします。
 「監視社会」という言葉を耳にします。あらゆる行動が監視されているということは、その情報を誰かかが得ているわけです。それは「なぜか」。
 簡単です。「命令に従わないから」にほかなりません。では、その命令をするのは大きくなれば、政治権力者になるわけです。ということは、「服従」が強いられることだと思います。

 最近の与党政治は、それは危険なことばかりに手を出しているように見えます。憲法も変えようとしているおとも、TPP問題についても、いっぱいあります。福島原発も解決されていません。
 開き直って、それを選んだのはみんなですからしかたがないのです。しかし、それらを反対する正当な理由があるかぎり、力で抑えたり、秘密で隠したりするというものに投票したわけではないでしょう。
 「こんなはずではなかった……」とならないように、注意深く追いかけてみたいです。
 最近、こうした市民の前に大きな壁をつくろるような「ロコツ」な法律がまかり出てしました。これは一方では、権力者の危機(何が不明)があるということの裏返しなのではないかと思えます。

 昨日、東京の猪瀬東京都知事が医療法人「徳州会」から5000万円ものお金を借りたそうです。それも選挙前であったようで、これからこのお金にかかわる疑問がでてくるのでしょう。危うくは都知事の選挙違反までになるでしょう。
 これも、もし、秘密保護法案なるものができたら、一度も世にでてくることはなかったかもしれません。違法なのか、合法なのかいずれにせよ、都知事という絶大な権力者がどんな背景で政治とかかわってきたのか434万票という史上空前の投票数にはじない政治をする責任が必要だと思います。そして、政治というものを都民に身近にさせることが大事なことだと思います。


 冬にはいって、風もないお天気のいい日は、ゆっくりひなたぼっこをしていたいと思います。遠くで元気に跳びまわる子どもたちがなによりの温かさのように思えます。
 近くの公園に新聞と缶コーヒーをもって出かけてきました。
 枯れた芝生のうえにゴロンと寝転んで新聞を読んでいたら元気な子どもの声……。理由などなくただ、転げまわるすのむじやきな姿には「無欲」さがうれしくなってしまいます。
 人の世界は、どうしても大人になっていくにつれ、利害関係が芽を出してきます。こんなはずではなかった……のにと自分の思いとはうらはらにこの利害関係はおおきくのしかかってくるストレスでもあるのだと思います。だから、無欲な子どもの姿は、一瞬でも「ああーありたいねえ」と思うのでしょう。

 とはいえ、大人の責任は大きい。子どもは親の姿や言動をみてゆくりその真似をしていくものだと思います。よかれ悪かれ、親は子どもにとっては先生みたいなものだと思います。話し方から、行動パターンまで似ています。自我の確率されるであろう青年までもっていくのでしょうね。
 スマホばかりみている大人には、子どもにとってはスマホが何よりも信じられる機械になってしまいかもしれません。親の言うことよりスマホの方は信用されてしまう時代がくるのかもしれません。(冗談ですが……)
 


 昼間より、夜の方がながくなってきました。静かな夜に本で読んで過ごそうか……と思いきや今月は残業が多いせいでしょうか読書ははかどりませんでした。だいたい、疲れた体には、読書はキツイものです。だいたい、考えられる時間の余裕がないのがいちばんつらいです。
 そんなこともあり、今月は3冊ほどになりました。
 前月からすっかり、藤原新也のファンになり今月も引き続き読んでみました。本当は写真家のですから写真を観にいきたいのですが、もっか本だけですませています。今度は機会があったら写真展にぜひ、足をはこんでみたいものです。

 もう一冊は『世界屠畜紀行』。これはとても面白いものでした。
 実際、自分の前にある肉は、解体され食肉用に形まできれいになっています。今回の『世界屠畜紀行』では、牛、豚、鶏、らくだなど、人間がこれまで食べてきたであろう肉について書かれた本です。圧巻は韓国での犬の肉まで人間によって食べられています。
 大事なことは、犬であろうと牛であろうと、その国の文化がそうさせるのであって、日本人的な文化とはちがうもので成り立っていることをまず理解することが大事なことだと思えた一冊でした。

 そして、動物の解体作業にかかわる人たちの生き様も紹介されていました。動物愛護団体の挑戦、日本で言う差別の問題などがいかに「いかさま」であるかわかってきます。実際は生きている人たちが食べる肉。それをおいしくする工夫がもっと大事なのではないかということもわかってきます。狂牛病、O157問題に対する処対応なども世界ではどう処理さてちるのかということが最も大事なことだと思えた一冊でした。
 
   

◎たとえ明日世界が滅びようとも/藤原新也/東京書籍


・リアリティというものは時に誤謬の中にも、いやその人独自の誤謬の中に生き生きと息づいているものである(p58)

・大金の絡んだ平成の大相撲の「按配相撲」と、星の貸し借りという者のそれを固列にくれべることはできないかもしれないが、大相撲の不詳は、フェアプレー精神や勝つか負けるかの勝敗のみが価値を決定づける近代スポーツ観がこの日本に定着しその一視点からしかスポーツを観戦できなくなってしまった平成の民の心の狭量さとも無関係ではないと思える(p87)

・生きていくための「食い物を作る」という人間にとって基本的なことを他の国にまかせておいて、それが何が入っていたかと騒ぐのは、自分の尻を他人に拭いてもらって汚れていると騒ぐに等しい(p187)

・つまりそれは安全圏の中に住む人々の間のみで消費されている自慰行為にすぎない。ここ数日の経験からするなら、希望言語より人々の心に寄り添ったなげきの言語の方がずっと心を癒すという不思議な人間の心の綾ろいうものがあるということを、希望希望と連発する人々は知って欲しい(p225)

・福島をはじめ世界に大量に飛散した放射能物質が、今後人間にどんな影響を与えるか、結局のところ専門家にもわからない。わからないならば「健康被害は起こりうる」という前提で危機管理に充てるべきだと思う。


【感想】
 読み終えて……、藤原新也の文にはさすがに写真家だけに物事を細かく、人の景色の影の部分みたいな(私には思えだけか)部分が暗示されていて考えてしまう。たしかに、世に写される写真にはそのリアリティーは文章以上に私たちに訴えるものが衝撃的だといえる。
 それを言葉にすると、今、自民党の与党内で原発廃止をいう小泉元首相の言葉とはうらはらに、彼が今までやってきた「規制緩和」はいったなんだったと思う。この規制緩和によって、年功序列から成果主義になり、競争原理は日本の家族型経営からアメリカ型の市場競争原理が経済にはいってきた。

 結果として、使い捨ては物だけにとどまらず人間(労働者)までが派遣社員なるものを育て上げてしまった。それは、まさに小林多喜二作の『蟹工船』のせかいをほうふつとさせる世界をつくりあげた。わるく言えば、企業に奴隷をつくりあげたようなものだと思う。正社員より責任を重くしたり、多く残業をさせたり、あげくには残業代も払わず首にしてしまう「ブラック企業」とまでいわるようになってしまったように思う。

 ……今は正義の味方のような元首相も過去はこんなに悪辣な経済をつくったのだということを片時も忘れるな!といっているような一冊であった。


◎コスモスの影はいつも誰かが隠れている/藤原新也/河出文庫

・人は生きがいというものがる。それはそんなに大したことでなくとも自分の仕事で中でほんの少し気落ちの通うような日常が持てるという、そんなわずかなことで人は日々の生きる勇気が湧くものだ(p133)

・東京のような冷たい、コマーシャルなところでは無神経にならなければやっていけないことはたくさんある(p162)

・記憶に残らないよう日々というのは一体なんだろう。つまり、それは彼女が自分自身で呼吸し、自分として生きていなかったということなのだろう(p165)

・人間の面影はそれの死とともに、やがて記憶の地層深く埋葬されて行くものだ(p224)

・主役は私ではなくて、世の中のどこにでもいる普通の人なのだ。人生は物語の宝庫である(p242)


【感想】
 人は生きている限り、どこかに住んで食事をして、さらに排泄して幸せだろうが不幸だろうが息をして日々を送っているものだと思った。
 以前「私の幸福度」という言葉がもてはやされたが、よくよく考えてみれば「そんなことは人によってどうでもいいじゃないか…。自分がこれでいいと思えば……」という気がした。
 この一冊は、そんなことをいっているような本だった。

 いずれにせよ、他人の幸せなどは自分とはいっさいかかわっていなければ「幸福」などと思わないだろう。


◎世界屠畜紀行/内澤旬子/角川文庫
・命をもらうことへの責任というのはよくわかる。そうなんだよ、罪悪感を引きずるながら肉を食べたり、革靴を履くくらいなら、きちんと動物への責任と感謝を感じながら生活すればいいじゃないの。この考え、私は好きだ(p76)

・ほとんどの人が肉を食べる……。動物をつぶすことから逃れることはできない。それはだれもがわかっているはずだ。なのに、いや、だからこそせめて、ということなんだろうか、動物が死ぬ直前まで苦しまないように活動する動物愛護運動は、動物の命を戴くことを正面から受け止めきれずにあがいているようで馴染めない(p129)



【感想】
 私たちが生活するうえで、食物の「肉」というものはとても大きな位置をしめています。肉は、日々からだの筋肉ををつくっているプロスポーツ選手を筆頭に私たちの生活を豊かにしている生活必需品といっても過言ではないと思える食材だ。
 でも、それがどうやって、食卓にでてくるかを一度考えてみる本がこの一冊であると思う。

 しかしその肉をめぐって、文化の違いで差別に利用されたり、宗教上で神への感謝をする行為であったりとさまざまな内容が含まれていることを考えたことがあるだろうか。
 まぁ、「うまい」と思ってしまえばそれまで……。
 うまいというなかにこれほど文化のちがいがあるものはないのではないかと思える。

 たとえば、韓国では犬の肉を食べる……。国内ではそれが当たり前になっておるのに、かたや日本では「ちょっと、ネ」となるだろう。そんななかで心の葛藤があり、ながい歴史の中で当たり前になるまでどれほどの差別があったことか、さらには紛争の種になっやりと長い歴史があったということは事実なのだ。

 そんなことを思うとありがたく戴くのがあたまえ、というのが著者のご意見だ。わたしも、気にせず肉をおいしく食べてきたことにあらためて感謝する一日が増えたように気がする。
 牛であれ、豚であれ、ヤギでも肉に感謝する日ができたことに大変ありがたいと思える。

 ……という話しである。ちなみに東京の肉は必ず、芝浦場で食肉用に解体され市場にでてくる。そこに働く人たちことも丁寧に書いてあってひじょうに好感がもてたように思う。
 食肉が口にはいるまでしばし考える一冊です。1回読んでみると、きっと肉もおいしい、と思います。生きた動物を殺し(切る)、解体し、食卓に並べられるまでを、最初から追った作品でもあり、おもしろい。


 ことしのブログは今日をもって、「閉店」でーす。  
 一年間、よく耐えて読んでくださった人、ありがとうございました。(^o^)/~~


 理由は仕事の都合で「閉店」となります。師走はネコの手もかりたいくらいの忙しさで日曜日もゆっくり休みます。
 そんなわけでみなさま、今年一年ありがとうございました。
 昨年より、今年は妻もちょっと元気でいるのはなによりです。これから12月にむけて仕事が超忙しくなると思うと気が重いのですが……まあ、仕方ないでしょう。
 来年は「新企画」を考えていきたいと思います。さて?何にするか来年のお楽しみにしておいてください。


へ/~\へへ/~\/~\へ/~\へ/~\/~\へヘ/~\

おまけ:月末には、今年最後の山歩きに行って来ました。


 今月末の休日を利用して、またしても「奥高尾山歩き」にいってきました。
 さすがに、この時期は朝は寒いですね。夜明けは電車のなかでむかえるという早起きでした。それでも、私の歩くのが遅いのでしょうかね。陣場高原下から終点の高尾まであるくとしたら、京王高尾山口につくのは暗くなってしまいます。単独で日帰りでの山の夜道は動いている方が危険です。まして、骨折でもしたらその場を動けず、圏外で連絡もできず……となれば凍死となります。
 これはさすがにまずいので、いつも小仏からおりて帰ってきました。

 それにつけても、毎回同じでバリエーションの少なさに反省して帰ました。同じ高尾でも、まっとバリエーションがあるのですが、私の怠慢でしょうかまたしても、テレビドラマの水戸黄門みたいに永年マンネリでした。
 しかし、このコースは歩きなれた山道……。何も考えず、危険な場所緒熟知しているので安心できるからでしょうか、前回も今回も同じコースでした。これで、今年7回とも同じコースでした。

 まあ、毎回行っていても季節ごとに変わる景色と同じで危険度も四季おりおりに違います。春はぬかるみ、さらには動物(特に野生さる)の危険、夏は雷雨、虫さされ、秋から冬にかけては寒さ(凍死)……などなどです。
 全体を通じてその危険からできるだけ遠くにいるためには、一番大事なことは時間的な余裕と季節ごとにもっていく装備でしょうか。
 きっと毎回同じ山にいっていても楽しみ方はきっとあるはずです。次回はそれを探しながらいきたいと思います。




 この日、帰り道でみた山や町は紅葉していましたよ。きっと11月下旬が紅葉のピークだったでしょうか。いずれにせよ、もう紅葉も終わりのようです。
 来年は低山のバリエーションも増やそうと思います。また、絶対に来年は雲取山にも行ってみたいと考えています。けがのないようにいきたいですね……。


*読んでくださった方、一年間ありがとうございました。・・・・~~~ヽ(^◇^))))))))))))))