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日々徒然に

今日はどんな一日で明日はどんな日にしよう?
 今日があることを感謝。
  あしたを考える一日をつくりたいね……

コロナ感染「第4波」到来・・・

2021年04月25日 | Weblog
 こんにちは。
 新型コロナがなければ、なんといい季節になったのでは、と思う日々となってきあきました。新緑がとてもやさしい季節になってきました。今週は、かず少ない会話の中でも「新緑がきれいですね・・・」という日々が多く聞かれました・散歩道デモは小さな花々がいっせいに花をつくて楽しく歩けるもこの時期の特権だろうと思います。
 また、4月は、小学一年生や新社会人などの後ろ姿もみかける日でもあります。そして引っ越しをしている光景もみかける月でもありました。
 人生の出会いと別れ。そんな時期なのでしょう。どこでも元気にいられるといいうと思います。
 毎年、くるツバメがお店の軒下に巣作りをはじめたようです。今年は、コロナでその商店が閉店になってしまい巣作りはむりかなーと思っていましたが、いつのまにかつがいでがんばっていました。

 4月最後の土曜日。朝早く2ヵ月ぶりに散髪にでかけた。天気もいいし、寒くもなく、絶好の散歩日でもある。帰りにはいつものように電車に乗らず歩いて帰ってきた。途中、井の頭公園、山本有三館などを見ながら帰ってきた。駅前にはなんと人が多いことか。いっぽう公園のなかは人もまばらである(朝早いのでまだ人でもなかったようですが)。

 新型コロナはいまだに収束の形をもっていません。
 政府は、三度目の「緊急事態宣言」を出すもようです。東京五輪も100日を切って何かあせりを感じている宣言に思えたことでしょうか。
 新聞によると頼みのワクチン接種率は人口の1%。これは先進国のOECD諸国では最下位だといいます。
 これまでの「宣言」はいったい何だっただろうと思えてくる。最悪の思えたのは、感染にはやっていけない人の移動を増やす「Go Toキャンペーン」は最悪だった。その反省や教訓もきかれない(?)なか3度目の宣言です。これからは、連休前は「宣言週間」でもつくられるかもしれないと思えてきた。本当に誰のための宣言なのか・・・。誰もが「五輪は中止」だと思っていることへの打開策のだろうと思えてきた。ワクチンもうまくいっていない、人の動きも抑えられない、というなかで本当に五輪はやるのか。だいたい、感染が減らない国に選手がくるのでしょうか。そして、誰のための五輪になってしまっているのか・・・。
 今回は、政府も本腰をいれているようで、「休業・時短・給付金」なども経産省、厚労省では政策を発表していた。
 まずは、国民の安心をつくってほしいところです。

 久しぶりに文学作品を読んみました。これまで、年金や退職後の実用本ばかり読んでいて、ときにうんざりさせられたことを思い出す日々が多かったように思います。
 この本を読むきっかけは、帰りのバスのなか。最近おもしろい本を読んでいますか、という問いかけに新入社員の某氏に『豆腐屋〇〇』のという題名の本が読みたいなーという問いかけから始まった一冊でした。
 記憶をたどってみれば・・・『豆腐屋の四季』・・・作者は松山か、松本か・・という会話でした。「この人最後はいろいろな運動にかかわって〇〇」と思い出したがそれ以上の思い出すことができませんでした。電車を乗り換えるころ思い出したのが「松下竜一」という名前でした。
 松下竜一という作家で思い出すことは『風成の女たち―ある漁村の闘い 』というのが思い出されます海を埋め立て建設をめぐって反対運動にたちがった女たちの記録をかいた本です。「一寸の虫にも五分の魂」ということのように、人の暮らしには譲れるものと譲れないものが必ずあってそのバランスを保ちながら暮らしている人々を描いた作品だった思います。

 そういえば、私たちの生活はいつの間にか、譲ることばかり強いられてきたように思えることが多いようです。それも、強権政治によって、あるいは隠蔽されたなかで。暮らしのなかの譲れないことを守る社会のありかたもあるのでしょう。
 例えば、福島第一原発の廃炉でたまった汚染水。汚染水を海に放出するということ。やっと落ちついてきた地上から今度は海にその安易な解決策が示されたこと。
 「がまんも限界」でしょう。海で生活する人々の気持ちもをないがしろにしてです。まわりまわって、私たちの生活にもその影響がでてくるのでしょうか。

【感想】
 『豆腐屋の四季』は昭和40~50年代、60年安保、70年代安保という激動の歴史の流れのなか、大分県の中津というとろで豆腐屋とう仕事しながらみた世の中を記録したものだろう。その模様を、短歌でつづり、妻、老父、姉、弟を思い描きながら日々のくらしをつづったものだと思う。
 本を読みながら、私は、私の兄弟や父母のことを思うと正反対の自分がいるような気がした。相手への呼びかけもないから、私への答えもないのは当然だとしても、人はことあることにつながっていたいものだろう。
 一方で世の中の便利さが人と人の距離を遠避けてきやのかもしれないとも思う。
 便利さについうかれて生きてきて生活が豊かになる一方で、失われていくことに気づいたころは遅すぎて反省ばかりになっていたのはないのだろうか。
 作者は、貧しい中でも失っていけないものをの目の前に差し出してくれたようにも思える。つまり、誠実さや信頼。お金がなくても出来る限りのできることの大切なものを思い出させてくれたように思える。
 どこかで、だれかの頑張りが、誰かを励ましているような気のする本でもあり、なにを思い出させてくれる一冊であったように思える。
 いつの日か、時のながれの中で、世間のアカによごれ、自分自身があまりにも失ってきたものの多さがあると思ったら読み返したいと思う一冊だった。

■p42 いったい、ロケットが金星をきわめること、私たちの幸福と、どうかかわるのか? 小人の妄言だと嘲笑されようとも構わぬ。私が自分のただの一度の人生を捨石にされてはたまらぬのだ。人類の進歩という命題が、いかに大いなるものであろうとも、一個の命の重みもまた、地球を超えるということではにか。

■p05 我がつくる 豆腐の歌も 我が愛も つながりされど真剣になり

■p124 たどたどと 力こめけん亡き 母の鉛筆のの 文字十五年薄れず

■p196 失くす筈 なき箸探す 此の夕べ 我も老父も寂しくなりゆく

■p207 もう少し 音を小さく 働けど 老父が喚(よ)べり 真夜の臥所ゆ

■p220 夜業われ 折り折りのぞき来る犬が 眼の遇(あ)いしとき強く尾を振る

■p260 ひどいことになったものだ。胸の打撲の痛みがやっと消えたら風邪をひき、それゆえなのかたちまちひどい下痢が続いた。その結果だろう持病の腰痛が始まった。最初は大したことでないつもりだったら、昨日の朝、仕事中ににわかに痛みが激化した。それのみではない。私は初めて痔までわずらうことになった。

■p211 私が、なお店々に愛され優しくしてもらえるのは、私の精いっぱいの誠実が、いつしか信頼されるようになった。

■p273 mるで気まぐれにらゆるジャンルの本を読みふけっていたのだ。知識教養を得ようとしたのではなかった。ただ娯しかった。自在に分ける書物の中の別の世界が娯しくてたまらなかったのだ。・・・今、知識として残っているものは何ひとつない。だが、なにかしら豊かさなつかしさがふるさとのように心の底に残っている。

■p292 反戦デモ 集えるかたえ うつむきて 日暮れの豆腐を積みて急ぎぬ

■p293 こんな時代を私をどのような生き方をすればいいのか。私は今まで、ただ誠実におのが家業に精出し、人びとにおいしい豆腐あぶらげを提供すること生き方としてきた。妻を愛し、老父を尊び姉弟たちと助け励まし合おうとしてきた。人とは決して争うまい、邪魔にならないようひっそりと生きようとしてきた。世のために何もできないのだから、せめて税金だけでもごまかさずたくさん払おうと父と語り合ってきた。そんな生き方に徹してきた。だが、今や世は激しい動きは市民の一人一人に激しい生き方を要求し始めている。・・・軽蔑されて、唾吐きかけられても、私はひっそり生活したい。


 すかっかり春らしくなりました。公園では人をさけて新緑を楽しむ人たちが見られるます。一年に一度の新緑の季節です。こんな時期に外出自粛をしていたら、逆に感染にかかりやすい体になってしまいそうです。大事なことは、人の密をさけ自然をからだにとりこむ時期にはちゃんとそのときの空気を取り込んでいくことなのだと思います。

 先週は「更新」は休みました。
 なにやら、このコーナーも少しずつ小さくなってきました(その分謝写真でカバーしているつもり)。
 さて連休も近づいてきました。どんな計画があるのでしょうか。今年も色濃く緊急事態宣言のなかにいる休みになりそうです。おそらく、昨年同様に家の周りをうろうろしていることでしょうか。それでも、何か新しい発見があるといいですね。
 
 それでは、今週はこの辺で失礼します。
 まだまだ、仕事がぼやき続ける日になりそうです。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

東京・まん延防止適用されて・・・思う

2021年04月11日 | Weblog
 こんにちは。
 桜も散り、緑が濃くなってきました。歩いているとハナミズキの花が咲きはじめました。空気も冷たくなって気落ちの天気がつづいています。同じ地球の上にもこんな自然があることをありがたく思える日々です。
 


 最近は、いつでも、どこでもコロナ禍のいうことを意識しながら生活をしている毎日です。先週「緊急事態宣言」が解除されたのもつかの間、こんどは「まん延防止重点措置」が適用されることになりました。けっきょく、感染者は減らすこともできず、さらに感染者を防ぐ対応に追われる日々には変わりはないということをつくずく感じた一週間でもありました。

 こんな日にはどこへ出かけるにも感染への心配はついてまわっています。とくに、家族や知人がでかけるときなどにも「感染しないように、密集するところはいくなよー」と暗黙のうちに語っているような毎日です。頭ではそんな無理なことはわかっていても、つぶやいています。
 そんななかで一日のなかで、いちばん安心できる時間は眠りから起きた朝くらいになっていることに気がつきます。
 
 いっぽう、国内では東京五輪の開催にむけた行動は始まっていました。聖火リレーは、密集を避けてといいながら、音響効果のいい宣伝カーに先導されながら有名人に聖火をにぎらせ走らせています。あるいは、水泳五輪代表をえらぶ大会もありました。白血病を克服し、競泳日本選手権で4冠を飾った池江璃花子選手。たいしたもんだーと思うしかありません。誰もが、こんな予想はしていなかったのでしょうからなおさらです。
 とはいえ、水をさすようになってしまいますが、大病治療のなか、優勝した池江璃花子選手をコロナ禍の私たちをイメージしてはいないでしょうか。ならば、東京五輪もできるのでは・・・と。そんな思いが、いつのまにか感染の怖さを忘れさせてしまうことの怖さを考えてしまうこともありました。
 それがスポーツの素晴らしさであることの反面、怖さでもあることに気づきます。これは国内大会だからできることで、一競技だからできることを忘れてしまうことにも怖さを感じます。

 これまで、「3密」「不急不要」「自粛」「ソーシャルディスタンス」ということをいつも、身近な人との間で認識する日々。だから、心配はこのことばかりになっていました。身近な人が感染すれば東京五輪などはふっとんでしまうでしょう。現実は、そんななかで動いています。だから「まん延防止等シ重点措置」が出たのでしょう。事実感染は減ってはいないことに気づきます。
 今、地球は病気の状態です。ならば、その病気を治す手立てを、一時の歓喜に流されないようにしたいものです。まだまだ続く感染予防の日であるすぐ隣にある中で生活していることを忘れないようにしたいものです。これまでの、努力を無にしないでほしいと思うこのごろだ。無になって一番困るのは、日々生活している家族や知人、親しい人、さらには弱者である。これまで、政治家が「GoTo〇〇」とか「全国一斉休校」などやって大失敗をしてきたことを思い出してほしい。
 いま、なぜ「東京五輪反対」という政治家がいわないのか不思議に思います。


 わたしこれまで、勤めた会社を辞めることにとんと考えてもみませんでした。現実には40年近く、千代区、板橋、千代田区(出向:4年余・ソロ)、中央区(出向:2年余り・ソロ)と転々としてきた職場を思い出しました。
 入社した当時は千代田区。とても便利で、どこへ行くにも重宝した場所でした。若さもあり、毎週、一度は近隣の人たちとの交流会やら労働組合やら、集会やら(日比谷野音など)に出かけていました。それでも疲れを知らず、日曜日には野球クラブで汗を流していました。さらに大会などにも参加していました。

 そして出向となり、千代田、中央区は、他人の会社に異邦人として一人仕事をしていました。仕事は関連のあることでしたのでめんどうなことはなかったのですが、最初のころは話すこともなくて一日中、机にむかって仕事をしていました。それが、のちには、今の職場(板橋)の人よりも心をゆるせる話ができるほどになっていました。世代が同じくらいの人だからでしょう。

 そして今。4~5年の出向から帰ってみれば、まさに「浦島状態」とか「ロビンソン・クルーソー状態」の日々でした。毎日、若い人たちに囲まれている状況で話もあまりしなくなりました。身の周りから同僚も次々の退社していく背中を見送る日々となりました。退職して何をやるとも聞くことなく、今をむかえて入り状態です。

 時は流れて・・・。早いものです。
 そんなこんなことでいよいよ退職ということになることになるのでしょうか。
 ところで、辞める手続きはいったいどうなっているんだろうというのが目下の悩み事でもあります。それに関する本などを図書館で読み始めたました。
 65歳以降でも失業手当があるようです。(本人が働く気があればですが)さらに年金の仕組みについても調べてみました。驚いたのは年金にまで税金が付くという事です。さんざん、搾り搾ってとられてきた中に、まだ搾るのかと、唖然とするばかりです。まだまだ、入口に入ったばかりです。これからどんな制度があるのか理解できたらと思います。
 これからは、会社のことより自分のことをしっかり考える時期なのでしょう。
 ということで、今日はここまでにします。






 春らんまん。コロナ禍であろうと自然は春をつれてきていました。散歩道には、桜からハナミズキ、さらにはツツジを多くみるようになりました。入学式あり、引っ越しありという季節でもあります。昨年よりは、学生の講義の形もリモートから人数を制限しての対面方式に変っていくようです。他人の子は成長が早いようです。いつの間にか卒業し、今年から社会人になっていました。身長もいつの間にかぬかされていました。この子もあと何十年と働くのだなーと思うと、長い人生になるようです。今年かコロナ禍、きっとこれからいろいろなことがあるのでしょうか。せめて戦争にならない世の中で働いていられることを祈るばかりです。
 競馬場では「桜花賞」の白馬のソダシがファンをひきつけているようです。一番人気でしょうか・・・。競走馬の世界ではいまごろは春の名前のレースがありますね。来週は皐月賞がありますし、これから一年どんな景色をつくってくれるのでしょうか。

 ごろごろしているうちに、時間はどんどん過ぎていくようです。春うらら・・・と浮かれている場合ではないかもしれません。
 では今週はこの辺失礼します。
 読んでくださった方ありがとうごいざいました。
 

新年度が始まる一方で私は・・・

2021年04月04日 | Weblog
 こんにちは。
 やっと温かくなりました。外へ出るのにも楽になってきました。天気のいい休日には、コロナ禍でもあっても散歩をしている人たちが多く見かけます。空ではヒバリがきれめなく鳴いています。春がきたなー、と思う時間です。
 そして4月は、人生のスタートの月でもあります。入学であれ、入社であれ最初の一年の始まりです。知人の子が中学生になり、卒業である時期です。そして、それを祝うかのように花もいっぱい見る季節でもあります。

 コロナ禍2年目。いっこうに感染者の人数は減る傾向にありません。「第4波」という言葉さえきくような日もあります。さらに、春ということもあって人の移動も少しずつ多くなっているようにも見えます。さらに「変異種コロナ」もまん延してきてもいる状況になっていました。「緊急事態宣言」解除以後も減る傾向にない状況であることもニュースになっていました。
 いったいこの状況は、「いつまで続くのかなー」と不安になる日々というのが正直なところです。
 とはいえ、世の中は春。毎日通勤している電車も人が増えていました。新しいスーツをきた新入社員の人たちの会話も聞こえてきました。「うるせーぞ」と思いながら聞いていることも多い日です。一方で、そんな若者をうらやましくも思います。

 東京五輪の聖火リレーも始まったようです。
 そんな様子をテレビで毎日放送されるたび「迂闊だった!」という新聞のコラムを思い出していました。都や国では、「不要不急」の外出を自粛でテレワークとか、飲食は少人数とか営業は9時までとか、とかくコロナ感染を防ぐためにあらゆる行動をとってくれと口をすっぱくして宣伝しているなかでのことです。厚労省のお役人たちが銀座ので大宴会をひらき、聖火リレーでは、自粛どころか大名行列のようなパレードになっていました。これで感染防止を本当にやる気があるのか? という疑問をもってしまいます。
 最近の政治の中では、言っていることとやっていることが滅茶苦茶です。政治に「言行一致」が大原則なのだろうけれどやるべき人ができていないな、と思う日々が多くなってきたように思えます。
 だいたい、こんことばかり見てると、時代劇でよくある「越後谷・・・お前もなかなかの悪やのう」という悪代官のイメージです。笑ってしまう反面、これが実際の生活の中で行なわれていることにつくづく政治家の腐敗を思います。

 一方、ミャンマーでは軍事政権が民衆にむかって野蛮な政治が行なわれています。そのうち、道路のまんなかに立っているのは、軍人だけでになっていることにもなりかねない状況でもあります。これも「言行一致」であるべき政治家が民衆のためにやるべきことを放棄した結果なのだと思います。軍人の本質があらわになった瞬間でもあります。
 とりあえず、日本ではそこまで権力が過激になっていません。でも、その手前にいることような気がします。人の生命を大事にする信念はますますうすら寒くなっていくような、コロナ禍のなかの道路です。「迂闊だった」と思わせる政治はますますハバをきかせる日々になっているように思えます。


 4月になりました。
 職場では、久しぶりに新入社員が採用された人たちのあいさつをうらやましく聞いていました。これからのことを思えば、たくさんの時間があるなかでどんな将来をつくっていくのだろうと思います。できるだけ人との関係がいい職場にしてほしい気がします。それより、少しでも仕事を覚えるほうが先でしょうか。あわてながら、仕事をしている若者は頼もしいものです。決して他人のあげあしをとって先にいくような先輩になってほしくありません。

 ところで、新入社員のことはいいのです! というのが今の私の位置でしょうか。
 来月でとうとう仕事人生が終わります。とはいえ、「お金のかかる」世のなかです。どう頑張っても「自助努力」だけではまかなけない老後の実態です。そんなことを心配して総務にかけあって、退職後のことを話してきました。〇〇部長いわく「今年は更新しません。だからその辺の手続きを」とのことでした。「どこかでアルバイトを探すしかないのかー」と思っていました。
 新入社員のことばかり日々話題になりがちですが、「去る人」のことも少しは考えて欲しいものです。とうとう、ほんとうに窓際に席が移ってしまいました。外の眺めはいいのですが、人の話もあまり聞こえてなくなってきました。
 
 そんなある日、〇〇常務から呼び出され、職場の人が「もう少しいてほしい」との声を聞いたのでしょうか、「アルバイトとして3カ月更新しますから」という内容のことをしました。持つべきものは、職場の声ですね。私の担当しているお客への対応がまだ分からないとうか、お客も大変になるだろうとの理由でした。
 
 思えば同じ職場で40年以上も働けたことが無駄じゃなかったのだな、と思いました。これまで異動の話もありましたが、しっかりとした理由がをいってきて異動はうけませんでした。(よい子のみなさんは決してまねをしないように)結果として、人は変わっても仕事は40年以上の関係が持てたということです。(笑い話になってしまいますが、すでに昨年、担当のお客さんが送別会をやってくれていて、終わっています)。

 とはいえ、これやっと「首の皮一枚つながった」気でいます。 
 「仕事が好きだから」などと嘘はいいたくありませんが、また少しは続けられそうです。残った期間は、マニュアルや身のまわりの整理をしておこうと考えています。できるだけ捨てることになるでしょう。それにしても退職後の手続きについてはよくわからないことが多いですね。
 「退職後の手続き本」などをよみ勉強を始めました。なにか、うまいこといい本があるといいのですが・・・。
 保険などのことも、年金生活にうまく移行できるようにしていくしかありません。官庁街では、退職後、天下りをして行く人も多いようです。報酬はそれなりの額があるようです。まあ、知識と技術があるのですからそれもいいのででしょう。しかし、後輩にとっては、ロールモデルになっているかは別の話です。少なくとも「いい加減にして出ていけ」と言われないようにしたいものです。

 
 4月の空気を思いっきり吸いたい季節なのですが、新型コロナウイルスと新種コロナウイルスが蔓延していて、マスクをして人気のないなかでひっそりと吸い込んでいます。へんな話、今年は散歩道で通り公園は朝からアルコールのにおいもゴミもありませんでした。どっちがいいて、やはりちょっとぐらい汚くてもコロナがないほうがいいに決まっています。
 
 あと一つ、なくていいと思うのは今年の東京五輪です。それは人の移動がいま以上に多くなることはかんべんして欲しいと思うからです。地方の人には関係ないことのように思えるかもしれませんが、いずれ東京の人が地方に多くいく状態になるということなのです。
 知らずしらずのうちに感染していることも多くなるでしょう。さらに外国の五輪スタッフがくるわけすから。
 もろ手をあげて喜んでいる場合ではないのでしょうか。
 そんな気がします。
 きょうはこの辺で失礼します。
 読んでくれた人、ありがとうございました。



コロナ禍ですがちょっと遅い墓参りの一日でした

2021年03月28日 | Weblog
 こんにちは。
 やっと温かくなりました。「緊急事態宣言」も解除されたのだから少しは感染者が減ったのでは思いきやこちらはいまだの冬の状態です、日々増えたり減ったりの状態は続いているようです。桜も咲き、陽気も温かくなってきたから自然と人の出入りは多くなっているようです。休日を利用して、彼岸から遅れて墓参りにいってきた乗り換えの駅は、人、人の多さには驚きました。平日の通勤しているときのな何倍もの多さには驚きました。これでは、まだまだです。事実今日も感染者は増えています。減るどことか、今後の感染者数が増え方が心配されているところです。

 ここにきて今週、東京五輪・パラリンピックの聖火リレーが始まりました。なんとなく「見切り発車」の感がぬぐえません。ランナーが走るところには人が集まらないようにということですが、コロナ禍での自粛のなか、何もなくなった日常です、近所を通ればみてしまうのが人情でしょう。陽気もよくて有名人が見られるとあれば、ごく自然に足を運んでしまいます。
 とはいえ、どうしてこんな時でも五輪は強行しようとしているのでしょうか。「感染防止を最優先」とはいうものの、いったい何が「最優先」なのか。だいたい、私たちにできることは、マスクや手洗い、人の集まりをできるだけ避ける、ことぐらいでしょう。
 わたしはそれこそ、五輪はこれらのことを実践している国民への裏切りのように思えてしまいますが・・・。病気になったら、まずそれをなおすことからではないのでしょうかね。


 桜が日本縦断を始めています。
 コロナ禍では、一家そろってあるいは友だちどうしで桜を見にいくこともはばかれる時勢になっています。これを「不要不急」というのでしょうか。それでも、温かさと桜の花を求めて動き出すのも自然なことなのではないのでしょうか。
 こんな時期だからこそ、桜の花は日本人の心中には大きな「春の景色」になっているようにも思えます。

 休日を利用して、故郷に墓参りにいってきました。
 墓前では自分が亡くなった父母の年齢に近づいてきたな、と思える時間でもあります。これから、いったいどこでどうしているのやら、いまだに具体的にならない毎日があります。いまは、墓参りのたびにかわっていく故郷の景色に世の中の移りかわりに追いつけなくなった自分自身の気がつきます。内心では「それで仕方のないこと」と自問自答していても、日々年齢は増えていくばかりだということは悲しい現実でもあることに、自然の流れなのだから・・・とあきらめているような日々があります。

 そんななか、いつ来ても変わらないものもありました。
 帰り道、子どものころよく遊んで神社によることがあります。季節は春で一本の桜が咲いていました。お正月に寄ったときは、枝もなくなっていき「枯れたのかな」と思っていました。子どものころ、この木の下で野球をやったり、夏休みにはラジオ体操、盆踊りもありました。セミをおいかけた木でもありました。ときには近所の夫婦けんかをしている朝を思い出しました。いまごろ、ここから旅だったたくさんの人たちはどんな景色を眺めているのでしょうか。いま亡き人たちのいるだろうこの時間にしっかり根をはって生きていました。

 桜の花がこれほどきれいにまだ咲かせて静かに立っている景色は変わっていないことに安ど感もありました。もう一世紀ちかくあるのではないのでしょうか。今はいなくなってしまった父母や近所のおじさん、おばさん、一緒に遊んでいたはずだった友だちがこの桜を見るたびに思い出されるような気がした一日でした。

 この時期どこでもたくさんの桜が人々をみつめているでしょう。どんな景色をつくり、壊してきてしまったのか・・・。
 毎年、当たり前のように咲きほこる木々に何を感じているのでしょうか。いまでも、当たり前のように、かわらず静かに咲いている桜を眺めながら、「時代は変化を期待しているような流れが歓迎されている」ような日々です。私が墓参りに訪ねるたびにかわっていくこの町にがほんとうに住みやすくなったのでしょうか。ひとはなにか変ることで、なにかを失っていったのではないのでしょうか。

 神社にひっそり咲いた桜を見ていると、きっと一人ひとりの心の中にあるのは変わらないものがあるのでしょう。変わってほしくないものや変わらなくては・・・、と悩んで生きてきたのではないのかなかー、と思えます。そのかわらないものの良さを置き去りにしてきた日々が反省させられる桜の花でした。

 とうとう3月も終わりです。今月は、世の中は卒業や引っ越しなどがみられる月になってなっているようです。コロナ禍のなかでも、昨年よりも一歩前に出た景色があるように思えます。通勤帰りに、羽織袴のお嬢さんをみかけたり、道路には引っ越し専門の車が駐車していたりと、新しいシーズンがくるんだと思えました。
 さて、NHKで大河ドラマ『青天を衝け』が始まりました。内容は、幕末のなか、新しい時代と共に渋沢栄二の生涯を描いたドラマです。日本の資本主義の父といわるる渋沢の生きざまに明治という時代を読み取ることができます。一方でこの時代活躍した人々に、これまでドラマにもなった坂本龍馬、西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文などの名前が浮かびます。

 『青天を衝け』の渋沢栄一もこの時代活躍した人でもあります。
 とはいえ、ほんとうにこの時代を動かしたのは、地方の下級武士であることはあまりドラマになりません。むしろ、この時代は一大ターニングポイントになるわけですから、後世に名を残す絶好のチャンスとでもいえる時代であったということも事実です。いま、後世に知ることのできる名前はこの興亡によって残った名前だといえるのだと思います。
 歴史の光と影があるとすれば、光の中にあるのは、今私たちが明治維新でしる有名人の名前でしょう。そして影といえば地方の氾濫に携わっていった人でしょう。
 今回の『相楽総三とその同志』は明治維新の影に部分で歴史変換をした人々を多くの資料を調査して、世の中に出した貴重な本だと思います。



 一つの時代を終わらせることは大変なことだろう。レーニン率いるロシア革命やキューバ革命など、歴史に残るのはその時代に権力をにぎった名前だけである。それでも、新しい時代をつくろうと命がけでその戦線にはいる勇気と志(信念)は並大抵ではあるまい。
 そのことを、追究した本が『相楽総三とその同志』という本だろうと思う。 明治維新が達成される瞬間に立ち遭えることさえ大変であろうが、それをやった人たちの物語である。それぞれの人間に信念としてあたえた学問、さらには行動をとおにした人たちの物語・・・。それはまさに人間の興亡の歴史でありと思う。

p68 私(亀太郎)は相楽総三の孫です。実は相楽の死刑が冤罪であることを苦心の結果、漸く確実にいたしましたので、聚集いたした材料によって御贈位の請願もしたく、就いては閣下のような事情を御承知の方にご尽力願えますれば非常な仕合せでございます。又、冤の雪がれることも速やかだろうと思い込んでおります。

p94 慶応二年三月から翌年の三月までの間にいろいろな出来事があった。幕府は二度目の長州藩毛利討伐をやった戦果殆どあがらず休戦となり、長州藩は英国軍艦と戦って苦戦したがこれも和睦が成った。十四代の将軍家茂は大坂城に薨(こう)じ慶喜が徳川家を嗣ぎて十五代将軍となり、勤王佐幕の政治波乱はいよいよ重畳し幕府は見廻り組、新撰組を手先に勤王有志家の制圧に努め、薩州藩会津藩の間には険悪を加えた。

p147 その頃の義兵の挙が悉く失敗したのはいろいろな事情と理由かたであるが、その一つの原因は火器に無関心だったからである。いい換えてみると、国学は興隆したが、攘夷論の行き過ぎが、近代武器に関して盲目であった。

p247 前にもいった如く浪士の中にはニセ者が混じっている。一時の食いつなぎとか、事故があって潜伏するためとか、そういう連中の大抵は、生命の危機を感じ、この数日中に逃げ失せた。それでも極く少数ながら逃げ遅れた者がいた。こうした連中は突撃して血路をひらく気は毛頭ない。そこで逃げ出した。

p280 福井藩の南部彦助は慶応三年十二月上旬、藩命で江戸へ呼ばれ、横浜在留の白人から金を借り出せと命ぜられ、その交渉にあたっていたが、不調に終わったその十八日で帰国の命令が出ないので、常盤橋内の上屋敷に滞在しているうちに、薩邸の焼討があった。

p283 北品川の浄土真宗大谷派の正徳寺(日夜山善水院)の僧で平松理準といって、そのとき年七十二、法澄を次代に譲り、南品川の隠宅に閑居していた。美濃の国、安八郡小野村(現岐阜県大垣市)の専寺に生まれた詩人で歌人である。歌の方は南園といった。

p326 相楽は浪士を集合させ、判明した事情を告げ、「われわれの死処はこの兵庫港かも知れぬからその覚悟でおれ、但し、天朝への御奉公のため、かかる処で死を好むべきでないので、飽くまで京都へのぼるべく百方手段を講じている。しかし、そこまで行かぬうちに開戦となったら、一死報国、全員討死にいたすべく」と演舌し、決心を促した。

p375 落合源一郎直亮は文政十年生まれ、武州多摩郡駒木野の累代関守の家、落合俊雄の子で母を南多摩郡浅川町(現東京都八王子)のうちに、駒木野という字を遺すのみである。

  
 『地球に住めなくなる日』を読んでいたら「2050年脱化石化燃料」「持続化可能社会」という言葉が思い出す。昨年からのコロナ禍のなかであまり表にはでてこなかった環境問題の言葉である。二酸化炭素の排出をできるだけ抑えるための政策なのだろう。二酸化炭素が増えるということは、それだけ地球が温まるということになる。ただでさえ地球は活火山のうえに置かれた地上に住んでいるいうことだけなのである。さらに、海が地球を冷やしているという惑星だというのが実態。

 読めばよむうちに「緊急事態宣言」は、新型コロナウイルス感染だけに出すだけでなく「温暖化」にもだせるほどが、いまの地球の状態であるようにも思えてくる。
 いっぽうで2050年ころは生きてはいない・・・という本音もある。だから、いまがよければいいのではないかという、まさに一国主義のような発想もあるのもわかる。この気持ちを代表しているのは、資本主義国の富裕層であることも知っている。しかし、この考えは、世界の1ペーセントの富裕層が、残りの99パーセントの世界を支配しているような状態の結果、温暖化なのだということを理解するまでは。そしてその99パーセントの一人として生きていることを知ると、温暖化はよくない、ということもわかってくる。

 世界中の温暖化の原因をデータによって調べたこの本をみれば、一目瞭然の環境悪化である。戦争や難民も温暖化が拍車をかけていることも理解できる一冊である。以前に読んだ斎藤幸平の『人新世の「資本論」』(集英社新書)を思い出す。
 
p17 私たちは変化の勢いに気づくのが遅く、エリート層やその組織のやることを信じてきた。あるいは、温暖化アル・ゴアが環境問題を訴えるドキュメンタリー映画〈不都合な真実〉ぐらいから出てきた新しい話でそんな短期間に事態が悪化するはずがないと高をくくているだろう。自動車に乗り、牛肉を食べる暮らしは変えたくない。あるいは「脱工業化」の概念が浸透するあまり、いまだって化石燃料を燃やす生産活動に支えられていることは忘れているのか。

p35 泥流でなぜこれおほど犠牲者が出るのか疑問に思われるかもしれない。その答はハリケーンや竜巻と同じだ。人間のせいかどうかはともかく、環境が凶器と化したのである。暴風災害にしても風それ自体が生命を奪うわけではない。強風で根こそぎ倒れた樹木が棍棒となり、風にあおられる電線がムチや首吊り綱になる。倒壊する住宅は人間を押しつぶし、自動車は巨大な石のように転がる。

p42 地球温暖化はほかならぬ人間のしわざだ。でもそれを自覚したらといって、絶望する必要はない。背景にはある仕組みは途方もなく大きくて複雑だし、実際私たちは痛い目にあっている。でもその責任はこちらにあると認めれば、それが立ち上がる力となるはずだ。地球温暖化は、まちがいなく人間のせいだ。いま抱いている罪悪感は、受け身から抜け切れない証拠だろう。けたはずれたハリケーン、かつてない規模の飢饉や熱波、難民や紛争の発生――どのシナリオも人間が用意したものであり、いまも続き執筆中だ。

p76 洪水で家が水に浸かり、数千万単位で気候難民が出現する。わすか、数百万の難民に四苦八苦するいまの世界が、それに失われるのは住居だけだはない。地域社会、学校、商店街、農地、オフィス街、高層ビルなど、数世紀前ならひとつの帝国と言ってもおかしくない規模の地域文化が突如として海底博物館と化す。

p98 だが2040年を迎えるころには、2018年のような夏が当たり前になるだろう。当たり前だが「正常」ではない。それは崩壊していく気候が見せる行きすぎた現象であり、急速に進む気候変動の大きな特徴でもある。予測の範囲を大きくはずれた、起こりえないはずの減少が何度発生し、災害を定義しなおす必要にせまれれる。

p109 先進国の大都市で最新設備がそろったマンションで生活していると、そんな日が来るとは、さも信じられない。ほしいものが、ほしいときに、ほしいだけれに入る豊かさが永遠に続く――世界の多くの都市はそんな幻想に染まっている。水は無尽蔵という思いこみは、その最たるものだ。台所で浴室で、トイレで遠慮なく使えるのは、相当の費用と労力をかけた結果なのだ。ケープタウンの渇水は、くすぶっていた対立感情を先鋭化させた。

p118 海流が本格的に研究されはじめた1980年代から、海流の機能不全が気候の不均衡を引きおこす懸念は指摘されていた。要するには暑い地域はさらに暑く、寒い地域はいっそう寒くなることだった。

p124 これまでになかった、いや理解されてこなかった汚染のひとつがマイクロプラスチックだ。地球温暖化が直接の原因ではないものの、マイクロプラスチックは自然界に急速に蔓延しており「人世界」の消費文化の罪ぶかさを私たちに突きつけていいる。太平洋ゴミベルト地帯――。洗濯機を1回動かすと、70万個のマイクロプラスチックが環境に放出されるという。インドネシアとカルフォルニアで売られている魚の4分の1には、体内にマイクロプラスチックが1年間に少なくとも1万1000粒とりこくむことになる。

p133 温度が上昇するパスツレラ・ムルトングを縦断に変えた仕組みはわかっていない。人間の体内にいる在菌のうち、正体のわかっているものはわずか1パーセント。残りの99パーセントは、知識も理解もないまま共生している。長年友好的にやってきた彼らが、気候変動の引き金にして恐怖の病原体に変身する右のだろうか。それは謎だが、無知を慰めにはならない。気候変動の進行で、将来そんな細菌に出会わないともかぎらない。

p155 温暖化の現状がこのまま続けば、2050年までに世界の三つの地域で1億4000万人の気候難民が発生する――世界銀行が2018年に出した予測だ。内訳はサハラ以南のアフリカで8600万人、南アジアで4000万人、ラテンアメリカで1700万人である。

p162 ~とりあげた未来スケッチは、見る者を疲弊させ、ときに絶望させる。あくまでもスケッチである。地球温暖化について、これまで積み上げてきた知識は疑いはない。北極の氷が融け、海面が上昇していることは現実だし、人間が招いた結果だ。でも私たちにわかっているのはここまで10年前は、気候が紛争に関係しているのは誰も知らなかった。20年前は気候変動と経済成長の関係はほとんど研究対象になっていなかった。50年前ともなると、気候変動それ自体研究されていなかった。

p190 これからの世界は、極端な気象や自然災害が頻発し、ハリケーンや洪水や熱波が発生する間隔が短くなって農作物の生産高も労働者の生産性も落ちるだろう。経済がかつてないほど揺さぶられる世界で、「ショック・ドクトリン」がどこまで通用するのか。答えては見えてこない。それでも欧米一辺倒だったビジネスと金融資本主義の方向性に、少しばかり揺れ始めているようだ。・・・小さくなるいっぽうの利益をめぐる争いが激化し、資本主義の原則がいっそう強固になるのか。過去数十年の動向からそんな推測が出てくるのも当然だろう。

p258 宇宙のなかで地球は特別――そんな感覚があるからといって問題にうまく対処できるわけではない。それでも地球に対して自分たちがやっていることに意識は向く。すべての文明は自滅に向かうという法則めいた話を持ち出すでもなく、人類という集団が下した決断に注目すればよい。いま人類は集団として、地球を廃墟にする道を選択している。


 毎日温かくなってきました。温かさと一緒に花もたくさん咲きはじめ、散歩道では目を楽しませてくれます。今週、桜は満開になっています。桜の咲く道にはコロナ感染に注意しながら歩く花見の人を多く見かけます。自然はコロナであろうとなかろうとしっかりと根をはった木には花をつけます。
 コロナ禍でも咲いた花の中、人をさけて墓参りにでかけたついでに、昔よく野球をして遊んでいた土地の人にあいたいと思い歩いていました。
 子どものころは、住んでいた近所には雑貨屋さんが3店舗ほどあったのですが、今はありませでんした。あるのは、きっとご家族の誰かが住んでいるのでしょうか、宅地になっていました。それでも、お店の前だけは昔のおもかげを出しているいるお店もありました。ここの、前でお菓子を買ったなあーと思い出がよみがえります。

 ちょっと悲しいのはどこにも昔のおもかげがなくなっていました。
 すべてが変わったかいませんでした。
 春はもうきているようです。あたたくなってきました。ツバメもみる陽気にもなってきました。
 どこでもですが、変わっていくもの、変わらないものせめぎあいがあるようです。明治維新では、権力争いでの興亡があるようにせめぎわい・・・。
 大事なことはそんななかで一番動いているのは名もなき志高い人たちであることがよくわかった『相楽総三 その同志』でした。
 
 それでは今回はこの辺で失礼します。くれぐれも感染には注意していきましょう。
 読んでくれた人、ありがとうございました。

「緊急事態宣言」解除されたとか・・・

2021年03月21日 | Weblog

こんにちは。
春がきました。朝夕の寒さもやわらいできました。街路地の植物も緑を濃くしています。天気がいい日には、外へ外へという気持ちが自然にでてくるのもこの季節の特徴なのでしょうか・・・。休みの日は、多摩川に足をはこぶ日が多くなってきたように思います。土手では、それぞれのスポーツチームか、友だちどうしか汗をいっぱいかいています。そんなとき「春になったなー」とつくずく思うこのごろです。

 さて今週は、なたしても東京五輪関係の人が辞任していました。前回の森会長辞任に引く続き、組織委員長の佐々木宏氏までも辞任です。それも、中身としては同じような差別的なないようになっているように思います。ことの本質は、東京五輪はいろいろなスキャンダルの多いことに気がつきます。まずは、競技場の設計段階で、そして五輪のロゴデザインの偽装問題、さらには日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長 の献金疑惑などがありました。とどめは、森、佐々木氏の人種差別ときましたが、こんなに問題が多いのもめずらしいのではと思います。
 とはいえ、それだけ世界中が、過敏のなっているのでしょうか。これらは、これまでにきっと大小の差はあれあったのではないのではないかと思います。それが、今年に今回にかぎってこれほどでてくるには何かわけがあるように思えます。

 政治のなかでも「接待問題」が露出していました。これまでのたくさんの接待問題があったのではなかったのでしょうか。今回これほど多くのことが出てくる背景にはなにかがあるのでは思います。
 コロナ禍のなか、人間、カネの問題がこれほど出てくる政権運営は破綻にきているようなところも見えます。ただ、コロナ禍であることが歯止めをかけているようにも見えます。もし、コロナ禍でなかったら今の政権は、緊急に必要なものでもなくなっているのではと思えてきてしまいます。米国の大統領がもめにもめて変わったように、日本でも変わっているのでは思えます。


 すっかり、自分の足代わりになっている交通機関。ローカル線の踏み切りで立ち止まってみると、周りの風景がすっかり春になっていました。普段はほとんどの窓の外を眺めることなく日々を送っているようです。気がつけば、菜の花がこんなにも咲いていることにも驚かされます。誰が植えたわけでもなく、季節ごとに花を咲かせてきたのでしょうか。一年の一時期、なんとなく、ローカル線にお礼をいっているように花の咲いていることに気づきます。電車の色とマッチして、さらに季節を感じさせる季節になってきました。この電車さらに先には、桜の花のアーチの中を走っています。桜はまだ、五分咲きほど・・・です。

 春は移動の季節。引っ越しやら人事異動やらで、住む、仕事をするところ、そして町の景色も変わってしまうでしょうか。今年はコロナ禍で移動は制限されているからどうなっていくのでしょうか。企業の論理は季節感はなく、自分の思いなどひとかけらもなく移動を強要しているのでしょうか。とくに、人は季節感を感じるころは老境にきていて動けに動けず、ということになっているのでしょう。最悪なのは、自分と相性のわるい人とも一緒に仕事をすることになっている時もあるようです。それでも仕事は待ってはくれません。

 じっと黙って咲いている花をみていると、こんなに寡黙で人に優しいところがあったんだと気がつくともあります。そんなところがあるから、人はいやないことも忘れる時間がつくれていくれているのでしょう。
 あわただし毎日、そんなところ一年をとおして気がつかせてくれるのは春なのかもしれません。



『きこえてくる』まどみちお(角川文庫)
土の中からきこえてくる 
水の中からきこえてくる
風のなかからきこえてくる 
ここに生れようとして
小さな数かぎりない生命たちが
めいめいの階段をのぼってくる足音が
ここに生れてきさえすれば

自分が何であるのかを
自分の目で見ることができるのだと
心はずませて のぼってくる足音が
いったい だれにきいたのか
どんな物をでも そのままうつす
空のかがみと水のかがみ
ここにたしかにあることを
ここが宇宙の「かがみの間」であることを

土の中からきこえてくる
水の中からきこえてくる
風の中からきこえてくる
小さな数はかぎりない生命たちが
いま近づいてくる足とが



 日曜の朝、新聞で「東京五輪・パラリンピクでは海外客断念決定」という見出しを見ました。それでもなおやろうとしている対応には疑問に思えました。
 コロナ禍、地震という困難な状況のなかでそれほどやる必要があるのかな? という気持ちです。選手一人の何人もの関係者がきます。国を代表してくるのですから、関係者プラス報道関係、さらにはその中継を完全なものするために通信関係者などもいます。さして、感染症を防ぐための医療従事者も。
 ちょうど病気の状態で、薬を持っての見切り発車のような感じがします。まさにクラスターをつくるような気がしますが・・・。そして、これ以上医療従事者への負担をかけるとうことは、国内での医療が手薄になってしまうのではないかと心配もあります。それらを、これからどうクリアーしていくのか対応が問われるところでしょう。まさに、これまでのオリンピックという興業がはじまったという気がする。

 興亡といえば、最近NHK大河ドラマで渋沢栄一をあつかったドラマをみていたら、明治維新を思いだした。明治維新で浮かぶのは『竜馬が行く』『天皇の世紀』などだ。浦賀にペリーが通称条約を結ぼうとやってきたからのことから始まる。
 鎖国という幕藩体制のなかで、交渉するかが問題になってくる。話合いか、武力をもってかわかれていく。そしてわかってくることは、日本が世界に取り残されてきたということ。進歩派の尊王攘夷派は徳川幕府体制では守りきれないとなるなか、新しい政治体制をつくるべく、革命(権力闘争)が起きてくる。それぞれの野望をもった人たちがいちはやく武士を捨て、自分たちの政治をつくろうした時代でもあった。それでも武士を捨てきれず、幕府を守るうとする側とで衝突が起きる。代表的なのが、会津戦争の白虎隊や田原坂の闘いなどが起きる『相楽総三とその同志』(長谷川伸著・講談社)によると明治維新は、多くの武士を捨てることになった浪人たちが暗躍したことがわかる。
 明治維新は、薩摩、長州などの人が中心に語れるが、実は関東近辺にも多くいたことを証明している。最終的には、薩摩、長州の人たちが江戸幕府を倒し政治の中心を担うのだが、実はそれを支えた多くの浪人たちの夢を持った興亡があったことがわかる。そして裏切られて謀反人に・・・。勝者が勝手に歴史を残していくという。
 そんなことがまた繰り返されるのだろうか。時代はちがっても、手法をかえて興亡がつづくのが世の常だと思える。


 今週は無事、更新できそうだ。
 
 南風が少しずつ春を運んでくるようです。街路には小さな桜の花がほころびはじめていました。
  最近は南風を顔にうけて歩いていることが、なんとも気持ちのいい日があります。休日には、大木の桜の木があったところを思い出しながら散歩をするようになっていました。
 東京でも都下でもあれば、誰にも気づかれないようなところに何十年も育っている桜の老木などを発見するときもあります。枝に手を触れると、誰も寄せつけないように外皮が固くしっかりしていて、あたかも人間のしわが固くなったようにも感じます。
 とはいえ、桜の美しさにのんびりしていることができないコロナ禍です。近所では、「桜まつり」ということもあってコロナ禍でなければ、ゆっくり見ることもできるのでしょう。
 今年は、昨年同様に人気を避けたものになるでしょうか。はやく、桜の下で、ごちそうを食べながらゆっくり見られる日がくるといいですね。
  ワクチンがまだまだ、私たちのところには来るのはもっと先のようです。できれば、ワクチンなど接種しない間に、コロナ感染がなくなれば・・・、と甘い予想をする日々です。
 今週はこの辺で失礼します。
 読んでくださった方、ありがとうございました。