ぶらぶら人生

心の呟き

テッポウユリ

2011-07-08 | 身辺雑記
 今月の診察を受けるために、T医院に出かけた。
 今日も、血圧良好。

 「昨日まで、山野草のみごとな鉢がありましたのに…」
 と、看護師は、一日遅れの診察を残念がられた。
 手入れの都合上、盆栽の提供者(患者さんの一人)が、土日を前に持ち帰られたとのことだった。

 その代わり、百合の花が活けてあった。
 テッポウユリとのことだった。
 白い花の芯のあたりが薄緑色を帯びていて、珍しい。   


        
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小さな花々

2011-07-07 | 身辺雑記
 うっかりしていると見過ごしてしまいそうな小さな花々。
 特に裏口から出入りするので、前庭の木に咲く地味な花は、見落としがちだ。

 モッコクが、たくさんの花をつけた。(写真 上)
 やがて白い実となる白式部は、白い花(写真 中)を、赤紫の実となる紫式部は、淡紫色の花(写真 下)をつけている。

 みな、木々の緑に隠れるように。
 今年は、早春のころ、庭師に施肥してもらったので、狭い庭が、ますます狭く感じられるほど、緑が繁った。


   

   

   
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芽生えるものの力

2011-07-06 | 身辺雑記
 野菜を買っては、食べ残して、捨てることが多い。
 薩摩芋や馬鈴薯は、よく芽を出す。

 薩摩芋の芽がのぞいたので、水を張ったお皿に置いた。
 蔓がすくすくと垂直に延びた。(写真 上)
 新鮮な緑が心地よい。

 節電や納涼のために、糸瓜やゴーヤーなどを軒に植える人が多いと聞く。
 が、私には造作なことに思え、小世界で、緑を楽しんでいる。

 昨年、収穫しておいた朝顔の種をプランターに播いた。
 運よく芽が出た。
 成長のプロセスを楽しんだ。
 支柱を立ててやったら、目のあるごとく、蔓は棒に巻きついた。
 今では側にある木槿の枝に絡まったり、拠りどころを求めて、蔓の先端を宙に漂わせたりしている。(写真 下)

       

            
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7月の庭 (蘇鉄と紫陽花)

2011-07-02 | 草花舎の四季
        

 梅雨空の一日。
 肌にまつわりつくような湿気が鬱陶しい。

 草花舎へ行く。
 昨夜、Tちゃんから電話があり、明日、スーザンさんが来られるとの連絡を受けた。
 
 Tちゃんは6月16日にイタリアから、スーザンさんは28日にフランスから帰ってこられたばかりである。
 二人にお会いするのも、スーザンさんと一緒に食事するのも、実に久しぶりのことだった。

 スーザンさんはカレーライス。私は、先日来、歯にいささかの不安があり、サラダやお肉が食べにくいので、昼食をケーキとコーヒーで済ませた。

 今日は、庭を歩かなかった。
 テラスに出て、蘇鉄と紫陽花のある風景を眺めるに留めた。(写真)
 スーザンさんも、テラスに出てこられた。
 折から、蝶が眼前をよぎった。
 「ちょうちょ」と私が言う。
 「ああ、BUTTERFLY チョウチョ?」と、スーザンさん。
 傍らの枝にかけられた巣の中央に、獲物を捕らえた蜘蛛が戻ってきたところだった。
 「SPIDER」と指さし、「くも」と言う。
 「クモ? チョウチョとクモ?」と、スーザンさん。
 たどたどしく単語の会話をする。

 そのあとの話で、スーザンさんの自伝が、校正の段階に来ていることを知った。
 10月ごろまでに校正を終え、本が出来上がるのは3月ごろであり、かなりの写真も添えらた200ページぐらいの本になるらしい。
 スーザンさんは、思考しながら手書きで原稿を書き、パソコンは清書のために使われるらしい。

 今日は、Tちゃんの通訳なしでの会話だった。実にぎこちない。
 上記の内容は、ジェスターや聞き取れるわずかな単語をつないでの判断なので、勘違いがあるかもしれない。

 二人で帰途に着いた。
 スーザンさんは、ミニミニスーパー(勝手にそう呼んでいる小さなお店)で、サラダ用のマヨネーズを買って帰られる予定だったようだ。
 ところがお店は閉まっていた。土日はお休みなのだ。

 団地に向かって歩いているとき、ホトトギスがしきりに鳴いていた。
 「キョキョキョ ホトトギス」と説明する。
 スーザンさんは立ち止まって、
 「ホトトギス ホトトギス ホトトギス」
 と、繰り返される。

 ホトトギスの棲息範囲は?
 英語でなんというのだろう?
 などと思いながら、私とスーザンさんは、キョキョキョ と、ホトトギスの声を真似ながら歩いた。  
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ターシャ・テューダーの言葉

2011-07-01 | 身辺雑記
   自然の業ってすごいわね。
   自然が創る物の種類、そのデザインの多さには感心するわ。
   カシの葉、カエデの葉、ネコヤナギ――みんなみごとよ。
   自然は美しいと思う。
   わたしは、そんな中にいられるだけで幸せよ。

   神様が人間を創られた時、
   人間の暴力的な面を取り去るのを、うっかり忘れたのだと思うわ。
   暴力も戦争も、ばかげたことよ。
   とんだ損失だし、兵士の親には悲劇よ。

   今、毎晩、ワイエスの伝記を読んでいるの。
   寝たきりになっても、読みたい本がたくさんあるから退屈しないわ。
   それに、またよくなると思っているから。
   今でも、何でもできるような気がするけど、
   やろうと思うと、身体が言うことをきかないの。

   まだ死ぬつもりはないわ。
   でも、死に向かって歩んでいるのは、みな同じよ。
   心配してもしかたないわ。
   わたしは、今生きているだけで、ありがたいと思うわ。

   今の気分?
   冬じゅう畑に放っておかれたカボチャの気分よ。

 上記は、<ターシャ・テューダーの言葉 最終章 『最期のときを見つめて』>からの引用である。
 ターシャ・テューダー(1915~2008)については、翻訳書がたくさん出版されているし、テレビでも幾度か紹介されていて、すでに多くの人びとから親しまれている。
 花々の庭園に佇むターシャ、犬や小動物たちを友とするターシャなど、思い出す姿はみな、老いてなお美しい。
 この本は、最晩年(2007年から死の直前)に、家族に語った言葉を収録したものである。文章に係わりのある、たくさんの写真も添えてある。
 90歳を過ぎながら、語られる言葉には、頭脳の柔軟さが感じられる。
 味わい深い詞華集である。
 生きている、そのこと自体を楽しむ生き方が、ターシャの人生だったようだ。
 きれいな花を咲かせる人になりたい、挿し絵画家になりたい、など、自らが抱いた夢をみごとに開花させた人である。
 そのターシャの語る言葉に、深い味わいがあるのは至極当然ともいえる。

 先日、山口の本屋で、棚に並ぶ<言葉シリーズ>のうち、その5作目を求めて帰った。

 誰にも避けられない人生の終わりを、ターシャは心豊かに生きた。
 私も見習いたい思いはあるけれど、ターシャのようには生きられないだろう。
 今日は7月1日。1年の後半のスタート日。
 いつ訪れるとも分からない終点に向かって、残りの日は少なくなるばかり。だが、ターシャの言うごとく、<いつまで生きるかは運命で決まっている、それなら賢く生きるしかない>だろう。今生きていることを楽しみながら。 


         


 『最期のときを見つめて』のほかに、下記の本も同時に求めた。
 『生首』(辺見庸の詩文集。2010年、第16回 中原中也賞受賞作)
 『トーキョー・ストレンジャー』(姜尚中著)
 『仏の発見』(五木寛之・梅原猛の対談集)

 どちらかと言えば、硬質な文章ばかり。だが、いずれも関心のある著者たちの興味ある内容の書である。ゆっくり味読したい。

       

             
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