永田和宏著『近代秀歌』に続いて、『現代秀歌』を読了した。いずれも再読。
近代の方は、みな馴染みの歌人であり、ほぼ誦じられる歌ばかりであったが、現代の方はそうはゆかなかった。
章立ては、『近代秀歌』と似ていて、
第一章 恋・愛
ガサッと落葉すくふやうに
第二章 青春
海を知らぬ少女の前に
第三章 新しい表現を求めて
父よ父よ世界が見えぬ
第四章 家族・友人
ふるさとに母を叱りてゐたりけり
第五章 日常
大根を探しにゆけば
第六章 社会・文化
居合わせし居合わせざりしことつひに
第七章 旅
ひまわりのアンダルシアはとほけれど
第八章 四季・自然
かなしみは明るさゆゑにきたりけり
第九章 孤の思い
秋のみづ素甕にあふれ
第十章 病と死
死はそこに抗ひがたく立つゆゑに
となっている。
十首の歌の一部が、各章のそれぞれに引用されているのも、『近代秀歌』と同じである。
読む私にとって異なるのは、『近代秀歌』では、各章の歌を完全に思い出し口ずさむことができ、作者名も言えたのに対し、『現代秀歌』の方では、第一章の河野裕子と第十章の上田三四二の歌だけであった。
お二人とも、亡き人であるが、河野裕子については、夫であられる永田和宏の本を通してある程度は知っているし、上田三四二(医師、歌人、作家、エッセイスト・平成元年に死去)は、没後に知り、幾冊かの書籍を求めて読んだ。(再読するため、施設に持参しているのは、平凡社刊の『うつしみ』である。)
明治生まれの歌人も含まれ、名前だけは知っている人もかなりあったけれど、誦じている歌は少なかった。
面白いと思った歌は、
大根を探しにゆけば大根は夜の電柱に立てかけてあり 花山多佳子
である。
歌の背景が想像でき、思わず笑ってしまう日常の一こま。
この本とは関係のないことであるが、暗誦は若い日にすべきことのようだ。若い日に覚えたことは忘れる確率が低い。
老いると、覚えるのに時間がかかるだけでなく、せっかく覚えても、すぐ忘れて定着しない。