ぶらぶら人生

心の呟き

また豪雨

2019-08-28 | 身辺雑記
 特に武雄市あたりを中心に豪雨となり、大変な被害が出ているようだ。
 まだしばらくは雨が続くという。

 当地にも、<大雨洪水警報>がずっと出ている。
 が、施設の4階の部屋にいて、本を読んだり、数独を考えたりしていると、雨がどの程度の降り方をしているのか、よほどその気になって外を観察しないと分からない。

 お昼に、テレビニュースを見て、九州の豪雨災害の実情を知り、初めて窓辺に立って外を眺めた。
 雨は小降りであったが、平素はくっきり見える山並みが雲の中に姿を消し、平家山の一部が見えるだけであった。

     


 施設の部屋で暮らすと、朝陽や夕陽など、スケールの大きい光景は楽しめるけれど、四季の移ろいなど、自然の細やかな変化を肌で感じることはできにくい。
 視覚的にはある程度は四季を感じられるが、耳で季節を楽しむことはできにくい。
 ここでは、風の音も、蝉の声も聞こえない。
 散歩に出かけない限り、肌で自然を感じることはできない。
 特に猛暑の8月は。
 今月は、美容室に出かけただけであったように思う。
 朝夕の涼しい時間帯に、外気に触れればよさそうだが、断りなしに出かけるのはなんとなく憚られる。

 ふと、家に帰って、花にくる蝶々を眺めたり、庭の蜘蛛の巣に引っかかったりしたくなる。
 
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戦中戦後の通知表

2019-08-28 | 身辺雑記
 大方のものは処理したと思っていたのに、書斎の机上においている、ケースを開けてみると、大きな茶封筒が出てきた。
 中を確かめると、証書類や通知表が入っていた。

 通知表は、母がまとめておいてくれたものであろうか?

 (私が小学生時代のテスト類や図画などを、母は学年ごとにまとめて保存していた。「もう処理しようね」と言いつつ見せたのは、私が就職してからであった。漢字を書くのに、一本の棒が抜けたり、似て入るけれど、◯はもらえない誤字を平気で書いているテストなども保存されていた。数学だけは得意だったらしく、100点がほとんどだったが、画用紙に残された作品も、全くお粗末なものであった。漢字がいい加減であっても平気なことと、絵画表現の曖昧さは、私の幼い日の共通した欠陥だったのかもしれない。
 記憶はとても曖昧だが、「通知表だけは残しておいたら……」と、そのとき、母から手渡されたような気がする。)

 小学校1年から高校卒業まで、12年間のものが袋に入っていた。
 そこに記されている記録は、昭和14年4月〜昭和26年3月に至る私個人の歩みである。
 と同時に、戦中戦後の時代を映すものとして、興味深く眺めた。
 
 通知表の紙の粗悪さは、ひどいものである。
 特に、昭和19年から24年の紙質は、長い保存に耐えがたいものである。

     

 上掲の写真の、左側にある通知表が、戦後のものである。
 当時は食糧難であったばかりでなく、紙なども全くなかった。ノートも入手できず、戦争の激化する中、閉鎖された缶詰工場の級友から、缶に貼られるはずだった紙をもらい、ノート代わりにした日もあった。
 紙不足の経験から、今なお裏の白い紙を捨てることができない。メモ用紙には使いきれないことが分かっていても、溜め込んでしまう。
 A4用紙の場合は、数独用のマス目をコピーして、大いに利用している。

 群ようこさんの『まあまあの日々』の中に「紙」と題したエッセイがあり、1954年生まれの作者でさえ、裏の白い紙は絶対に捨てられない、と書いておられた。
 <私が育った昭和三十年代は、まだ紙が貴重品だった。>と。
 私の時代は、貴重品どころではなく、紙がなかった!
 それがどれくらいの期間であったかは、記憶が不鮮明である。
 
 用紙を買うお金に窮しているわけではないのに、裏の真っ白な紙を捨てがたい思いは、紙に不自由した体験無くしては生まれないものだと思う。

 私の時代は、学校制度も大きく変わった。
 小学校から国民学校へ。
 県立女学校から県立女学校併設中学校へ。
 県立第2高等学校としてスタートした女子だけの学校は、男女共学の県立高等学校へ。
 
 通知表は、戦中戦後の制度改正で、過渡期を歩んだ記録簿でもある。
 ただ、1学期分だけ成績の無記載がある。(昭和20年、女学校へ入学した年の1学期。)
 入学の日から終戦の日までは、評価ができるほどの学習をしなかったということであろう。
 校庭を耕して芋づくりをしたり、松原湾からバケツで海水を運び、プールで塩作りをしたり、労働に明け暮れた思い出が強い。(お芋や塩ができたかどうかは、全く記憶にないのだが……。)

 それでも、2学期からは勉強ができるようになり、戦争のない自由な時代を生きられたのだから幸せである。
 現代のように、受験勉強に追われることもなく、結構楽しい日々であった。
 そこには戦後ならではの、新鮮な輝きさえあったように思う。

 12年間の通知表に目を通し、記憶というものの曖昧さにも驚いた。
 担任の先生を記憶し違えていたり、クラス名をすっかり忘れていたり。
 中学校のクラスは、<1年4組><2年2組><3年4組>、高校のクラスは、<1年2組><2年3組><3年6組>となっていた。

 先週は家にいて、個人史の一部に触れつつ、多くの時間を過ごしてしまった。
 平素は思い出すこともなかった先生方や友達のことなど、来し方を思いつつ。
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