昨夜は疲労感がひどく、こんな時は休むにしくなしと、睡眠導入剤を飲んで、8時半にベッドに横たわった。
ところが、いっこうに寝付けない。
平素は、かなり遅く就寝する習慣のせいか、それとも異常な疲れが原因なのか、とにかく眠れない。
そこで、テレビをつけた。
土曜日なので、9時前のニュースが放映されていた。
3月22日は、丸山眞男の生誕100年に当たる、と報じていた。
なるほど! と思いつつ、、書棚に眠らせている全集を思い出した。
その後も相変わらず眠れず、結局、薬を追加し、10時過ぎに就寝。
音楽CDをかけ、疲労気味の頭を鎮めながら。
今朝、丸山眞男全集(16巻+別巻)の並ぶ書棚から、別巻(下の写真)を取り出した。
朝食後、ページを繰った。
そしてまず、その生涯(1914年3月22日~1996年8月15日)を、40ページもある<年譜>でたどった。
その思想に関心があればこそ、全集を購入したわけである。
が、断片的にしか読んでおらず、生涯についても、ほとんど知らなかった。
生誕・学歴・戦争体験・病歴などなど、年譜を通して、かなり詳しく知ることになった。
読解力にもかなり陰りが出ており、全集を読みこなすことはできないだろう。
だが、これを機に、少しずつでも読みたいと思う。
別巻中に、次のような表現があり、思考停止を避けるためにも、今こそ読まれるべき本だとも思った。
<支配層と国民とを区別してみると、もちろんすぐれた意味で戦争責任が帰属するのは権力体系に座をつらねた人及び種々の政治的エリットであるということは言えるが、国民=非治者の側の戦争責任が全然否定されることにはならない。例えば中国の生命、財産、文化の惨憺たる破壊に対して、われわれ国民は共同責任を免れ得ないし、ファシズム支配に黙従したことに対する道徳的な責任まで解除されるかは、問題である。>(「日本支配層の戦争責任」より)
こういう洞察力の濃い本に出合うと、もう少し元気でいて、読書を楽しみ、人間のあり方を問い続けたいと思う。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
今日の読売新聞の<四季>、長谷川櫂選の句に
蕗の薹見つけし今日はこれでよし 細見綾子
が、載っていた。
<細見綾子の句、 (蕗の薹を)庭の片隅で見つけて、心密かに満足しているところ。浅緑の玉のような形だからだろう、春そのものを見つけた気分なのだ。> (長谷川櫂評の一部)
昨日、墓参の折、お墓の後方の丘に、たくさんの蕗の薹を見つけた。
そのことをも思い出しながら、我が家の庭にただ一つ生じた蕗の薹(3月8日のブログに掲載)の、その後を見に庭に出た。
新聞の写真に似て、ほどよく成長した姿が庭にあった。
『歳時記』も、開いてみた。
をちこちに死者のこゑする蕗のたう 三橋鷹女
数多く例句の並ぶ中に、上の句を見つけた。
この句が、どんな状況下で詠まれたものか知らないけれど、ふと昨日墓地で見た蕗の薹の景を思い出した。
墓地には、菫の花も咲いていた。
ついでに、庭の草木の変化を見て歩いた。
下の写真は、新たに咲き始めた椿の花とチオノドクサ。
ところが、いっこうに寝付けない。
平素は、かなり遅く就寝する習慣のせいか、それとも異常な疲れが原因なのか、とにかく眠れない。
そこで、テレビをつけた。
土曜日なので、9時前のニュースが放映されていた。
3月22日は、丸山眞男の生誕100年に当たる、と報じていた。
なるほど! と思いつつ、、書棚に眠らせている全集を思い出した。
その後も相変わらず眠れず、結局、薬を追加し、10時過ぎに就寝。
音楽CDをかけ、疲労気味の頭を鎮めながら。
今朝、丸山眞男全集(16巻+別巻)の並ぶ書棚から、別巻(下の写真)を取り出した。
朝食後、ページを繰った。
そしてまず、その生涯(1914年3月22日~1996年8月15日)を、40ページもある<年譜>でたどった。
その思想に関心があればこそ、全集を購入したわけである。
が、断片的にしか読んでおらず、生涯についても、ほとんど知らなかった。
生誕・学歴・戦争体験・病歴などなど、年譜を通して、かなり詳しく知ることになった。
読解力にもかなり陰りが出ており、全集を読みこなすことはできないだろう。
だが、これを機に、少しずつでも読みたいと思う。
別巻中に、次のような表現があり、思考停止を避けるためにも、今こそ読まれるべき本だとも思った。
<支配層と国民とを区別してみると、もちろんすぐれた意味で戦争責任が帰属するのは権力体系に座をつらねた人及び種々の政治的エリットであるということは言えるが、国民=非治者の側の戦争責任が全然否定されることにはならない。例えば中国の生命、財産、文化の惨憺たる破壊に対して、われわれ国民は共同責任を免れ得ないし、ファシズム支配に黙従したことに対する道徳的な責任まで解除されるかは、問題である。>(「日本支配層の戦争責任」より)
こういう洞察力の濃い本に出合うと、もう少し元気でいて、読書を楽しみ、人間のあり方を問い続けたいと思う。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
今日の読売新聞の<四季>、長谷川櫂選の句に
蕗の薹見つけし今日はこれでよし 細見綾子
が、載っていた。
<細見綾子の句、 (蕗の薹を)庭の片隅で見つけて、心密かに満足しているところ。浅緑の玉のような形だからだろう、春そのものを見つけた気分なのだ。> (長谷川櫂評の一部)
昨日、墓参の折、お墓の後方の丘に、たくさんの蕗の薹を見つけた。
そのことをも思い出しながら、我が家の庭にただ一つ生じた蕗の薹(3月8日のブログに掲載)の、その後を見に庭に出た。
新聞の写真に似て、ほどよく成長した姿が庭にあった。
『歳時記』も、開いてみた。
をちこちに死者のこゑする蕗のたう 三橋鷹女
数多く例句の並ぶ中に、上の句を見つけた。
この句が、どんな状況下で詠まれたものか知らないけれど、ふと昨日墓地で見た蕗の薹の景を思い出した。
墓地には、菫の花も咲いていた。
ついでに、庭の草木の変化を見て歩いた。
下の写真は、新たに咲き始めた椿の花とチオノドクサ。