<4月尽>と書きながら、思わずカレンダーを確認した。
4月が果てるという実感が乏しい。
何となく肌寒い。ふと3月ではないかと、勘違いしそうなのだ。
桜も終わったし、春の旅も楽しんだのに、4月下旬の日々は、とかく寒い日が多く、変化に乏しい生活をしていると、肌感覚だけで季節を考えてしまう。
が、セーターが脱げなくても、暖房器具にサヨナラできなくても、確実に季節は巡っている。
昨夜は、22時、戸外に出てみた。月が山の端を離れるところだった。スーザン邸のすぐ前方にある小山の頂から、十五夜の月は昇ろうとしていた。(写真 上)
就寝前、もう一度外に出てみた。
すでに24時を回って、今日になっていた。
隣家の屋根の上に、満月はあって、ひとむらの雲に囲まれていた。(写真 下)
屋根瓦は、月光に照らされ、鈍い光を放っていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/84/dda9a744b4b32ae1312513eb412f8cdf.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/b3/6b3e835d75c79ad5c87e79ef7b8a4900.jpg)
今日は、心の傷む日となった。
昼前、郵便受けを確かめたところ、Nさんの訃を伝える葉書が入っていたのだ。かつて、同人誌の仲間だったNさんの死は、その子息から伝えられたのであった。
4月20日死去、22日に葬儀も済ませた、と。
Nさんからいただいた今年の賀状には、腹部疾患のため入院中と記してあった。
見慣れた筆跡で、
<私も73歳ですからオーバーホールの必要な年齢です>
とも、書いてあった。
私より若いし、一時的な入院なのだろうと勝手に思い込んでいたのがまずかった。
見舞いに行かなかったばかりでなく、お見舞いの書状さえしたためなかったことが、訃報の葉書を手にして悔まれた。
もう言葉を交わすこともないのだと思っているうちに、じわじわと悲しみが広がった。
明日から郵便局のお休みが続くので、早速、子息に宛ててお悔やみの手紙を書き、午後局に出かけた。
今年は、親しい人たちとのお別れが続く。
2月には同級生と、3月には親交のあった同僚と、そして4月の終わろうとした今日は、40余年、文学を語り合った、大切な友達の訃に接したのだ。
亡き三人の知己からは、今年も、年の始めの賀状が届いている。
今年も続くはずだった交誼は、死去という悲しみにより、突如断ち切られてしまった。
4月尽の今晩は、また戸外に出て満月を眺め、亡き人を偲ぶ夜となった。
× × × × × × × × × ×
今年も、4月の終わろうとする今日、牡丹が咲いた。(写真)
ここにも、季節の巡りがあって…。
10年以上前に、友達からもらった牡丹は、ほぼ同じ丈のまま、毎年二つの花を律儀に咲かせる。5月の到来を告げるかのように。
今年も写真を添えて、送り主の友達に、メールを送ろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/db/68fcb18ba97efad7b8b6883f3c117b61.jpg)
3年前に近所の人にもらったシロヤマブキも、今年は合計五つの花を咲かせた。(写真)
寂しさの多い暮らしの中で、花は心の慰めとなる。
人の悲しみとは関わりなく、時は確実に植物を育て、花を咲かせてくれる。
ありがたいことだ。
4月が果てるという実感が乏しい。
何となく肌寒い。ふと3月ではないかと、勘違いしそうなのだ。
桜も終わったし、春の旅も楽しんだのに、4月下旬の日々は、とかく寒い日が多く、変化に乏しい生活をしていると、肌感覚だけで季節を考えてしまう。
が、セーターが脱げなくても、暖房器具にサヨナラできなくても、確実に季節は巡っている。
昨夜は、22時、戸外に出てみた。月が山の端を離れるところだった。スーザン邸のすぐ前方にある小山の頂から、十五夜の月は昇ろうとしていた。(写真 上)
就寝前、もう一度外に出てみた。
すでに24時を回って、今日になっていた。
隣家の屋根の上に、満月はあって、ひとむらの雲に囲まれていた。(写真 下)
屋根瓦は、月光に照らされ、鈍い光を放っていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/84/dda9a744b4b32ae1312513eb412f8cdf.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/b3/6b3e835d75c79ad5c87e79ef7b8a4900.jpg)
今日は、心の傷む日となった。
昼前、郵便受けを確かめたところ、Nさんの訃を伝える葉書が入っていたのだ。かつて、同人誌の仲間だったNさんの死は、その子息から伝えられたのであった。
4月20日死去、22日に葬儀も済ませた、と。
Nさんからいただいた今年の賀状には、腹部疾患のため入院中と記してあった。
見慣れた筆跡で、
<私も73歳ですからオーバーホールの必要な年齢です>
とも、書いてあった。
私より若いし、一時的な入院なのだろうと勝手に思い込んでいたのがまずかった。
見舞いに行かなかったばかりでなく、お見舞いの書状さえしたためなかったことが、訃報の葉書を手にして悔まれた。
もう言葉を交わすこともないのだと思っているうちに、じわじわと悲しみが広がった。
明日から郵便局のお休みが続くので、早速、子息に宛ててお悔やみの手紙を書き、午後局に出かけた。
今年は、親しい人たちとのお別れが続く。
2月には同級生と、3月には親交のあった同僚と、そして4月の終わろうとした今日は、40余年、文学を語り合った、大切な友達の訃に接したのだ。
亡き三人の知己からは、今年も、年の始めの賀状が届いている。
今年も続くはずだった交誼は、死去という悲しみにより、突如断ち切られてしまった。
4月尽の今晩は、また戸外に出て満月を眺め、亡き人を偲ぶ夜となった。
× × × × × × × × × ×
今年も、4月の終わろうとする今日、牡丹が咲いた。(写真)
ここにも、季節の巡りがあって…。
10年以上前に、友達からもらった牡丹は、ほぼ同じ丈のまま、毎年二つの花を律儀に咲かせる。5月の到来を告げるかのように。
今年も写真を添えて、送り主の友達に、メールを送ろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/db/68fcb18ba97efad7b8b6883f3c117b61.jpg)
3年前に近所の人にもらったシロヤマブキも、今年は合計五つの花を咲かせた。(写真)
寂しさの多い暮らしの中で、花は心の慰めとなる。
人の悲しみとは関わりなく、時は確実に植物を育て、花を咲かせてくれる。
ありがたいことだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/81/d83aa4f0465efd19b0d8d253f049f66b.jpg)