ぶらぶら人生

心の呟き

日は匆匆と

2009-10-20 | 身辺雑記
 息災の日々を過ごしながら、気づいてみると、随分長い間ブログの更新を怠っている。惰性は怖いものだ。一日怠れば、来る日も来る日も、いい加減になってしまう。
 これも年のせい?
 何もかも年のせいにしてしまうと、これほど楽なことはない。
 が、やはり気分は、爽やかというわけではない。
 空白の日々は、思考が停止したままのような寂しさを覚える。

 今日は、先日来のことを思い出しながら、少しメモしておこうと思う。
 (今、カレンダーを眺め、その日その日の出来事を辿ろうとしても、わずか一週間のことがスムーズに思い出せない。認知症の初期症状ではあるまいなあ、と思ったりする…。)

 13日の月曜日には、草花舎へ食事に行った。
 その日、スーザンさんは、台風で荒らされた庭の片づけをなさるとのことで、食事には来られなかった。
 草花舎から帰った後、スーザン邸をのぞいた。
 金木犀の花を届けに。
 庭の小枝をを鋏で切り取り、小さな空き瓶に挿した。
 和英辞典で調べたメモ<kinmokusei= a fragrant orange colored olive>を添えて、お宅へ届けのだった。(写真は、家の金木犀)
 スーザンさんは、庭のお手入れ中であった。
 荒廃の庭に我慢できず、早速、修復に取りかかられる行動力に感心する。
 わが家の庭は、実にあるがままである。ああすればいい、こうすればいいと思う気持ちはあるのだが、実行力が伴わない。
 これも年のせい?
 というより美意識の差なのかもしれない。

 スーザン邸の前の畑では、Nさんが農作業中だった。
 しばらく立ち話をする。
 畑には高い畝が作られ、冬大根が大きく育っていた。
 愛情が、野菜を立派に育て、庭木を美しくするのであろう。
 私も、空いた鉢に、野菜の種でも播いてみようかと、ふと思った。
     
 
              

 13日には、かかりつけの医院に行き、診察を受けて、薬をもらってきた。
 ついでにタクシーで街に出て、駅前で食事をしたり買い物をしたりした。

 14日は、雨が降ったり止んだり。
 雷鳴もあった。
 特にお昼過ぎの雷は、頭の上からドッスンと、槌を振り落とされた感じだった。落雷かと思わせる、一瞬の轟きだった。
 3時頃であったか、友人から、電話しても通じないけれど、と携帯の方に問い合わせがあった。
 そこで初めて異常に気づいた。
 私の方には、電話の入った記録が残っていないし、受話器を取っても無音であった。
 早速、M電気店に頼んで調べてもらった。
 電話機の故障ではなく、外線に問題がありそうだと、NTTに連絡してくださった。
 結局は、雷のいたずらだった。
 やがてNTTの工員が来て、隣家前の電柱に登り、修理してくださった。
 近所には異常がなかったのに、わが家の電話だけ使用不可となったわけは、理解できない。
 実は、その日、書いていたブログを投稿する前に、工事のため、インターネットの接続が途切れ、ほぼ書き上げていたブログは完全に消失し、がっかりした。
 それが、再び書く意欲を萎えさせ、ブログから遠ざかる一因にもなったのだった。

 NTTの工員は、昔の知己であった。が、名のられなければ、気づくはずもなかった。昔の少年が、50過ぎの顔になっていたのだから、無理もない。
 音信の絶えていた人との、四十年ぶりの、思いがけぬ遭遇は、雷様の思わぬプレゼント?!

 遭遇と言えば、15日、友人に会うため、街に出たとき、ショッピングセンターで出逢った知己も、二十年ぶりの出会いであった。こちらは互いに大人になってからの知人なので、気づき合うと同時に、久闊を叙し喜び合うことができた。
 しかし、狭い街でも、同日同刻同場所に居合わせるというのは、めったにあり得ない、不思議な縁ともいえそうだ。

 16日、落葉した紅葉の葉を掻き集めたついでに、もうとっくに花の終わった秋海棠の廃れた茎を片付けた。
 その茎の節に、丸い玉がついていた。(写真)
 零余子(むかご)と呼ぶものらしい。珠芽、胎芽、肉芽などとも同義らしい。
 <腋芽の変形したもので、ふつう小さな球塊となり、養分を貯蔵し、たやすく植物母体から離れて、無性的に新個体を生じるもの。>
 と、辞書の説明にはあった。
 秋海棠は、花も、葉も、茎も、その風情が好きである。いくら増えてくれてもいい。

 
             

 昨日、草花舎へ行こうと、裏口を出たところに蟷螂がじっとしていた。(写真)
 腰を下ろして、観察した。
 何のために、身じろぎもせず、そこにいるのやら?
 よく見れば、蟷螂の形も色も、なかなか精巧にできている! と、感心する。

 この季節、見かける昆虫の大方は、動きが鈍い。生涯の終わりのひと時を生きているのだろうか。

 
             

 今、窓越しに金木犀の木を見ると、大方の花が落ちている。
 この花も、一旬の命らしい。

 私は、終焉の日を知りえぬ故に、明日も明後日もあると、永遠に生があるかのように時には錯覚し続け、のらりくらりと送日している。
 一方で、<なんと日々の、過ぎ去る速さよ!>と、思いながら……。     
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする