来訪の友人と話しているうちに、幼い日のことが話題となった。それぞれの想い出を語り合っているとき、友人の口から、仲間をののしるときの言葉が、数珠繋ぎに飛び出してきた。
「ばか・あほう・まぬけ…………………」
と、いくつもの単語が並んで、最後は、
「かぼちゃ」
で終った。
私は、唖然としながら、
「なんで、かぼちゃなの?」
と聞いた。
けなしの言葉には、格別意味などないのかもしれない。口から出まかせのようなところがある。
友人に、「もう一度言ってみて」と頼んだが、弾みで飛び出した口調を、易々と言い直すのは難しいことのようだった。
<子ども社会>には、必ず餓鬼大将のような存在があった。
その存在に対し、力では到底及ばない、ひ弱い者は、べそをかきながら、<犬の遠吠え>のように、悪口(あっこう)をたれたものだ。
多くは野外で見かけた、その光景は、時代的には戦時下、戦後を背景としたものである。そうした幼い日の想い出には、どこかのどかで、甘美さが伴う。
(今の子どもたちはどうなのだろう? 悪口<あっこう>は、もっと隠微で陰惨なものではないだろうか?)
接頭語の《クソ》や《ド》がつくと、さらに強調した言い方になり、<バカ>は<クソバカ>に、<アホウ>は<ドアホウ>となる。
私は、人に罵声を浴びせたことも、浴びせられたこともない。
子ども時代ばかりでなく、私の人生には、威張ることも、人と争うこともなかったように思う。性格であろう。
「かぼちゃ」で、高校時代の数学の先生を思い出した。
なぜ「カボチャ」だったのか? 揶揄的な意味はなく、風貌から、誰かが渾名し、流布したのだろう。親しみを込めた渾名だったように思う。
「チャビン」と渾名された、古典の先生もいた。
先生の怒りが沸騰するごとに、関係のない者はうつむきながら、笑いをこらえたものだった。これも懐かしい教室の風景である。
<犬の遠吠え>に似た悪口の話から、連想ゲームのように、遠い過去が蘇った。
友人を送って庭に出ると、黄色い花が目についた。
石蕗の花である。(写真①)
花びらを伸ばしきらない花弁もある。蕾の、小さな円柱の中に折り畳まれていた花弁は、少しずつほころびるらしい。
夕空には、茜色を帯びた雲が、輝いていた。(写真②)
①
②
「ばか・あほう・まぬけ…………………」
と、いくつもの単語が並んで、最後は、
「かぼちゃ」
で終った。
私は、唖然としながら、
「なんで、かぼちゃなの?」
と聞いた。
けなしの言葉には、格別意味などないのかもしれない。口から出まかせのようなところがある。
友人に、「もう一度言ってみて」と頼んだが、弾みで飛び出した口調を、易々と言い直すのは難しいことのようだった。
<子ども社会>には、必ず餓鬼大将のような存在があった。
その存在に対し、力では到底及ばない、ひ弱い者は、べそをかきながら、<犬の遠吠え>のように、悪口(あっこう)をたれたものだ。
多くは野外で見かけた、その光景は、時代的には戦時下、戦後を背景としたものである。そうした幼い日の想い出には、どこかのどかで、甘美さが伴う。
(今の子どもたちはどうなのだろう? 悪口<あっこう>は、もっと隠微で陰惨なものではないだろうか?)
接頭語の《クソ》や《ド》がつくと、さらに強調した言い方になり、<バカ>は<クソバカ>に、<アホウ>は<ドアホウ>となる。
私は、人に罵声を浴びせたことも、浴びせられたこともない。
子ども時代ばかりでなく、私の人生には、威張ることも、人と争うこともなかったように思う。性格であろう。
「かぼちゃ」で、高校時代の数学の先生を思い出した。
なぜ「カボチャ」だったのか? 揶揄的な意味はなく、風貌から、誰かが渾名し、流布したのだろう。親しみを込めた渾名だったように思う。
「チャビン」と渾名された、古典の先生もいた。
先生の怒りが沸騰するごとに、関係のない者はうつむきながら、笑いをこらえたものだった。これも懐かしい教室の風景である。
<犬の遠吠え>に似た悪口の話から、連想ゲームのように、遠い過去が蘇った。
友人を送って庭に出ると、黄色い花が目についた。
石蕗の花である。(写真①)
花びらを伸ばしきらない花弁もある。蕾の、小さな円柱の中に折り畳まれていた花弁は、少しずつほころびるらしい。
夕空には、茜色を帯びた雲が、輝いていた。(写真②)
①
②